町村制の性格

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大日本帝国憲法発布、帝国議会開設を間近に控えた明治二十一年(一八八八)四月二十五日、市制町村制が公布された。地方自治制度導入の準備は、明治十五年(一八八二)に伊藤博文へ憲法調査の勅命が下ったことにはじまる。この後、プロイセン流の中央集権的な地方自治制度を日本へ移入することが計画されるが、その中心にあったのは、明治十六年十二月以来内務卿の地位にあった山県有朋、そして十九年に内閣および内務省法律顧問として来日したアルベルト・モッセだった。政府は予想される民党勢力の伸張に対し、内閣制度と並ぶ支配体制の安定強化の礎石として、地方制度を早急に整備する必要があったのである。これにより、町村は上級機関の強い指揮監督権が及ぶ限られた自治を与えられ、中央集権的支配体制の末端組織として位置づけられることとなった。
 町村制は八章一三九条からなり、付帯文書である理由書が付されている。以下にその特徴をみておこう。まず第一に町村には財産管理権を持つ自治体として法人格が与えられた。第二に町村一切の事件について議決し、条例規則の制定権を持つ町村会と、執行機関としての町村長が置かれた。町村会で選出されて府県知事の認可を受けた町村長は、町村会の議長を兼ねた。また、町村長および助役は原則無給の名誉職であり、理由なく辞退すれば法的制裁が準備された。
 第三に徴兵、徴税、戸籍など、国や府県、郡の行政事務を委任され、しかもその費用は全て町村が負担することとなったほか、郡、県の強い指揮監督下に置かれた。第四は選挙制度である。参政権を有するのは、町村内に二年以上居住する二五歳以上の男子で、地租または直接国税二円以上を納める「公民」に限られ、選挙は等級選挙制であった。すなわち町村会議員選挙は、納税額の多い者から合計し、全公民の納税総額の半分を負担している者を一級、それ以下を二級とし、それぞれ議員定数の半数を選出させる有産者優位の仕組みだった。議員定数は人口によって規定され、多摩村では一二人だった。政府は「此選挙法ニ依テ以テ細民ノ多数ニ制セラルルノ弊ヲ妨」(「市制町村制理由」)ごうとしたのである。そこには村内で特権的立場に立つ地主、自作農層および商工ブルジョア層を支配体制内にとりこみ、将来国政に進出しうるこれらの階層に体制側の政治運営を修得させる狙いもあった。第五は町村の財源は財産収入や手数料などで賄い、これで不足するときのみ町村税を課すことが規定され、下層民ほど実質負担が重い戸数割の比率が高くなったことである。政府は国の財政を優先し、その枯渇を警戒して町村の財源を保証しなかったのである。それではこの町村制がどのように実施されていったかを、以下にみていくこととしよう。