政府は国政委任事務に耐え得る「相当ノ資力ヲ有スル」町村の創設を企図したが、その達成のために採られた手段が全国的な町村合併だった。市制町村制が元老院を通過した直後の明治二十一年(一八八八)二月十三日、政府は法案の内示と説明を行うため、府県知事を召集して町村制市制講究会を開いた。この結果、山県は府県知事らの希望を入れるかたちで、法律の施行は翌二十二年四月一日以降各地の実情により漸次行うこと、町村制の施行前に町村の合併を行うことを決めた。
山県はまず町村合併の見込みを府県知事に内申させた。神奈川県では二十一年五月二十五日、町村の廃置分合、基本財産、町村会組織など、町村制実施に関する調査を各郡長に命じた。三十日からは県庁で郡区長会議が開かれたが、田沼健第一部長以下、各部署から市町村制実施取調委員として人員を集め、県としての調査を開始したのもこの頃である(『毎日新聞』明治二十一年六月一日、十二日付)。沖守固県知事は六月六日、県側の総括的方針を郡区長へ伝えた。それは第一に市制町村制の施行期日は明治二十二年四月一日とすること。第二に町村長は名誉職とし、収入役は身元保証金を徴する方針で取り調べること。第三に新町村区画の設定については明治十七年以来の平均五〇〇戸からなる数町村の連合所轄区域である「連合町村制一戸長所轄区域」を標準とし、止むを得ず合併できない場合のみ町村組合とする、というものだった。これをもとに更に郡区長会議が重ねられたが、当時の新聞報道によれば、各郡区は民情を異にし、郡区長の意見も一致せず、市制町村制の実施についても「遅速緩急」の二説があってなかなかはかどらなかったという(『毎日新聞』明治二十一年六月十日付)。このような状況下の同月十三日、政府は内務大臣訓令により町村合併標準を提示した。
七月九日からの郡区長会議では各郡区長の見込案が提出されたが、たとえば南多摩郡についてみると、先に述べた県側の方針と合致していたものの、県全体としてはなお大幅な修正が必要だった。県側ではこれまで町村の廃置分合について、一般には詳細を明らかにしてこなかったが、このような態度に対して住民から不満の声があがった。たとえば、中村克昌、吉野泰三、市川幸吉らは渡辺菅吾北多摩郡長に面会し、有力住民と協議した上で町村分合を行うよう申し入れ、住民団結のための大懇親会を開く計画を立てた(『毎日新聞』八月二十三日付)。沖県知事は調査に一応の目処がつくと、各郡区長に連合戸長、総代へ郡長見込みの新町村区画、村名、役場位置を諮問させ、十二月中旬には県側の市町村分合案を郡区長へ諮問した。県では翌二十二年三月五日に「町村制施行順序」を定め、同月十一日の訓令で町村分合を定め、同月三十一日をもってこれを実施することとした。この合併により、全国で七万一三一四町村が一万五八二〇町村に、神奈川県で一三八三町村が三二〇町村に、南多摩郡では一三五町村が二〇町村に統合された。