多摩村の誕生

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現在の多摩市域の原型をなす多摩村は、関戸村、連光寺村、東寺方村、乞田村、貝取村、一ノ宮村、落合村、和田村、百草村飛地、落川村飛地の合併によって誕生した。これは連合戸長所轄区域である「関戸村外八カ村」を基礎とした戸数五〇〇を超える新村の創出となり、国や県の意図するところと一致したものだった。これ以来、従来の各村は多摩村の大字となる。各郡長が連合戸長、惣代へ見込案を諮問した九月以降、県下各町村から合併を巡る異議が噴出したが、それは行政的で画一的な線引きに対する、風俗人情や地理上の違い、共有地の状況等、すなわち生活基盤に基づく利害を主眼とした住民の自治意識の現れであった。多摩村への合併に際しては、連合戸長区域に含まれていた百草村が外れて隣接する七生村へ合併されたが、これについての賛否の動きは不明である。

図1―4―1 明治22年頃の多摩村

 次に「富沢日記」により新村誕生までの市域の動きをみていこう。明治二十一年(一八八八)四月二十五日に市制町村制が公布されて間もなくの五月四日に「市町村制法律ヲ読」とあるのが初見である。九月十九日には安達安民南多摩郡長が訪れ、「町村制之義ニ付各村惣代重立之者」と向岡小学校で集会を開いているが、これは先に述べた連合戸長、惣代への郡長案の諮問と考えてよいだろう。翌二十二年三月三日、連光寺村馬引沢で町村制についての談話会が開かれ、五日には連合戸長区域九か村の村民が東寺方村寿徳寺で集会を開いた。
 この頃、全国では町村制についての研究会が広く行われ政治結社化するものもあったが、多摩市域の集会で何が検討されていたかは不明である。十二日の各村惣代会議も町村制についてのものだろう。十一日に出された合併についての最終的な訓令が戸長役場に届くのは十六日のことだが、すでに十二日にはその内容について新聞報道されていることからも、この日の会議は十一日の訓令を受けてのものかもしれない。合併に際しての重要な問題の一つである各村の共有物について協議が行われたのは二十二日のことだが、これは後述することとする。二十四日には向岡学校で町村制講話が行われたが、その内容はやはり不明である。町村制施行後の四月三日、憲法発布、町村制施行、小学生試験終了をあわせた祝賀会が向岡小学校で開かれた。
 さて、多摩の中心であったとはいえないこの地の村名を何故「多摩村」と定めたのであろうか。新村名の選定にあたっては合併村中で最大の旧村名や歴史上の由来から採用するなど一定の方法があるが、多摩村については現在でもその選定理由がわかっていない。鮎漁で有名な多摩川からとったとするなど、いくつかの説があるが、何故多摩村となったのか、郡長案の村名は何だったのか、といった選定の経過は依然としてわからないままである。