図1―4―1 明治22年頃の多摩村
次に「富沢日記」により新村誕生までの市域の動きをみていこう。明治二十一年(一八八八)四月二十五日に市制町村制が公布されて間もなくの五月四日に「市町村制法律ヲ読」とあるのが初見である。九月十九日には安達安民南多摩郡長が訪れ、「町村制之義ニ付各村惣代重立之者」と向岡小学校で集会を開いているが、これは先に述べた連合戸長、惣代への郡長案の諮問と考えてよいだろう。翌二十二年三月三日、連光寺村馬引沢で町村制についての談話会が開かれ、五日には連合戸長区域九か村の村民が東寺方村寿徳寺で集会を開いた。
この頃、全国では町村制についての研究会が広く行われ政治結社化するものもあったが、多摩市域の集会で何が検討されていたかは不明である。十二日の各村惣代会議も町村制についてのものだろう。十一日に出された合併についての最終的な訓令が戸長役場に届くのは十六日のことだが、すでに十二日にはその内容について新聞報道されていることからも、この日の会議は十一日の訓令を受けてのものかもしれない。合併に際しての重要な問題の一つである各村の共有物について協議が行われたのは二十二日のことだが、これは後述することとする。二十四日には向岡学校で町村制講話が行われたが、その内容はやはり不明である。町村制施行後の四月三日、憲法発布、町村制施行、小学生試験終了をあわせた祝賀会が向岡小学校で開かれた。
さて、多摩の中心であったとはいえないこの地の村名を何故「多摩村」と定めたのであろうか。新村名の選定にあたっては合併村中で最大の旧村名や歴史上の由来から採用するなど一定の方法があるが、多摩村については現在でもその選定理由がわかっていない。鮎漁で有名な多摩川からとったとするなど、いくつかの説があるが、何故多摩村となったのか、郡長案の村名は何だったのか、といった選定の経過は依然としてわからないままである。