区会の成立

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明治二十二年(一八八九)三月の県令第一一号により、町村分合の際の財産処分については、関係町村で協議の上、知事の認可を受けることが下達された。多摩市域では二十二日、「共有物之義」につき各村惣代人の協議会が開かれた(「富沢日記」)。三十日に県知事へ提出された認可願により各村の共有財産をまとめたのが表1―4―7であるが、これはそのままの規模で旧村所有の財産、または旧村間の共有財産として認可された。この後、全国的にこれら共有財産の村有化が進められていくこととなるが、三十五年の南多摩郡の状況は次のようである。
表1―4―7 地区共有財産状況
関戸村 連光寺村 連光寺・関戸 連光寺・一ノ宮 一ノ宮村 落合村
反.畝.歩
2.3.24 0.4.02
22.7.00 57.3.01 0.4.09
(+170反余)
山林 8.0.09 60.8.14
原野 40.9.14 11.1.28 4.2.20 35.9.20 109.4.17
(+1.0.00)
宅地 1.3.22 0.2.03
荒地 170.3.11
焼場 0.1.00 1.9.18
溜池 5.7.10
34.4.25 159.8.04 11.1.28 4.2.20 206.7.10 117.1.15
( )含 約205.4.25
渡船 2艘 3
渡船場 1
渡船場用材 1切
消防器雲龍水 1 1
警鐘 1 1
朶板葺家屋 2
 
落合・堀之内・越野 和田村 乞田村 貝取村 百草村
反.畝.歩
0.4.21 (61.5.25)
3.9.29 20.2.16
 
山林 2.7.15 0.0.20 85.3.19
原野 86.7.00 58.9.21 1.5.10 0.4.24 0.7.14
 
宅地  
荒地  
焼場  
溜池 4.3.03
86.7.00 58.9.21 8.7.15 4.8.17 106.3.19
( )含 167.9.14
渡船  
渡船場  
渡船場用材  
消防器雲龍水  
警鐘  
朶板葺家屋  
「共有財産処分認可願」(富沢政宏家文書)より作成。
注)( )内は荒地。

 大字(旧村)共有の財産は山林、原野、秣場等、その多くが土地である。これらの整理は町村制施行当時から行われず、何れも旧慣によって各大字総代が主掌している。これは地方経済上、取締上相当の措置をせねばならず、目下町村長に訓示して取調べ中である(「報告書」)。

 しかし多摩村においては村の財産表中に旧村所有の財産が表記されるのが大正六年、村有財産に統合されるのは全国的にも遅い昭和十五年のことである。このことは、それだけ旧村の独立性の強さを示しているといえよう。
 このように、町村合併により新町村を創出したとはいえ、現実には社会生活上の基盤である旧村を完全に否定することはできなかった。旧村の名称は大字として残され、町村制においては旧村の行政を協議する区会の設置を認めざるを得ず、ここに行政機関としての新村と生活の場としての旧村という二重構造が生まれることとなったのである。
 多摩村でも「所有スル財産及営造物ノ為メ」旧村ごとに区会が設けられた(資三―168)。区会議員の選出は村内の公民で区内在住者による投票で行われたが、村会議員選挙と同様、選ばれたのは旧村内の有力者だった。落合では処仁小学校校舎建築のため、同一学区の乞田、貝取と建築費の全額八〇〇円を負担することとなったが、区会ではこれを共有財産の売却でまかなうこととした(多摩市教育委員会『小山晶家文書(三)』)。なお、この校舎建築費負担問題の顛末については一編五章四節を参照されたい。
 連光寺区会では落葉や下草の入札による売却、川除(カワヨケ)工事補助、里道修繕費補助等について協議されたほか、稲城往還の乞田川橋梁架換工事について、一切の費用は共有財産で支弁し、人夫は旧村内の各戸から供出することが決められた(資三―171)。村における土木行政の財政的負担は旧村に依拠されていたのである。再び三十五年の南多摩郡の状況を示しておこう。
……里道や橋梁の修繕を町村の予算に計上することはない。大字や区で寄付金又は協議費と称して費用を分担し、或いは各自人夫として工事に従事している。町村長は工事完了の検分を行うに過ぎない(「報告書」)。

 費用負担についての旧村間の利害問題も背景としてあったとはいえ、このような実状は行政上からも旧村の存在意義を明示することとなり、更なる旧村内の結束を促した一方、行政村には旧村の連合体としての性格が強く残っていったのである。