村役場の設置

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関戸村外八か村の連合戸長役場は関戸に置かれていたが、多摩村役場も引き続き関戸に置くことが県から指示された。関戸一一六〇番に設置された役場は借家であり、明治二十二年度の予算にも役場費に「借家料」「畳替費」が計上されている(資三―166)。九月十一日の議事録によれば、借家料には借地料も含まれていた。また付属建築物である橋梁の修繕が行われたが、畳替費以外の経費は全て「地主」、すなわち貸した側の負担とすることが決められている(富沢政宏家文書)。
 当時の役場位置は集落や道路の状況を踏まえ、「町村内中央ヲ目的」として選定された。しかし町村制施行から十年以上経った明治三十五年(一九〇二)になっても、南多摩郡二〇町村中、借家でないのは八王子町、加住村、日野町、稲城村だけで、他は民家や寺院を借用して役場としていたのである(「報告書」)。
 多摩村で役場建設が俎上にのるのは明治の後半だった。四十三年、庁舎二七二円四〇銭、付属建物一〇四円六九銭の役場庁舎建築費が議決されたが(『多摩町誌』)、役場設置の場所は決まっていなかった。五月十九日、福井新助ら四人の関戸人民総代は富沢村長へ上申書を提出した。それは、関戸には明治八年以来役場が置かれており、最近では年間五、六回軍隊の宿舎に充てられているので、役場が近くなければ官民の不便が少なくないという理由から、関戸への役場設置を求めるものだった。その場合には字霞ケ関一一九三番、一一九四番の関戸共有地の畑と宅地六畝四八歩を無償で提供し、人夫は関戸で「相当ノ寄付」を約束するという力の入れようだった(明治四十三年「村会議事録」)。
 関戸の上申書に見られるような地域利害の主張もあってか、役場位置は未定のままで、翌四十四年一月十五日には関戸の観音寺で役場位置、小学校改築有志会が開かれている。この時期は多摩村尋常高等小学校建築をめぐる動きも活発化していたのである。四十五年六月二十五日には小学校および役場敷地買収の件が議決された(『多摩町誌』)。役場敷地として山林六畝二〇歩を八八円三二銭で購入するというものだが、地目から見て先の関戸の候補地でないことは明らかである。八月十二日には役場建築費の追加議決が行われ、予算の細目が決まった(『多摩町誌』但し敷地購入費の八円三二銭は誤り)。大正二年二月二十八日、貝取字二〇号一七二四番一号ノ一に役場位置を変更することが議決され(大正二年「村会議事録」)、ほぼ現在の市役所の位置に役場が移された。なお、役場敷地選定の経緯については、一編六章四節を参照されたい。