駐在所と巡査

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明治十九年(一八八六)七月の地方官官制により一郡区一警察署が定められ、三郡を管轄していた八王子警察署は定員三九人の南多摩郡警察署と改称され、管下に原町田分署を持った。二十一年十月、内務省は「警察官吏配置及勤務概則」によって、警察署での集中勤務体制を改革し、不統一だった駐在所および派出所制度を確立した。人口一五〇〇人から三〇〇〇人につき一人の巡査を警察署に配置し、管轄地域を数区に分けて、一区を巡査一人の受持ちとした。また巡査は受持ち区内に駐在させ、その宿所を駐在所とし、なるべく役場所在地に設置することとされた。一区の巡回は月一五回以上とし、巡査は月一回以上、所属署に出勤することとされたのである。駐在所、派出所は二十三年までにほぼ整備され、二十四年には一万一三五〇か所を超えた。これは全国の新町村数約一万五〇〇〇に対応したものであり、町村制による地方行政改革の実行にともない、全国的な警察網を整備強化しようとするものだった。
 多摩市域では町村制実施前の二十一年二月十二日、戸長役場付近の関戸「観音寺ヲ以仮設交番」とし、十四日から高橋弥吉巡査が巡視を開始した(「富沢日記」)。高橋巡査は普段は稲城村に駐在していたようである。二十六年に三多摩が東京府へ移管されると南多摩郡警察署は八王子警察署と改称された。さらに一村に二か所の駐在所設置が義務づけられ、多摩村では二十八年末から乞田、落合、貝取、和田、百草を管轄区域とする乞田巡査駐在所建築が協議され(資三―183)、遅くとも三十年末までには完成したが、(富沢政宏家文書)、やはり建築諸経費は管轄下各区からの寄付金で賄われた(資三―184)。また『多摩町誌』によれば大正二年には和田に駐在所が設置されている。
 当時の巡査の働きを「富沢日記」でみておこう。二十一年九月八日、高橋巡査が「玉川鮎漁」の件で富沢政賢のもとを訪れている。十六日には宮内大臣、主猟局長官、ドイツ人のお雇い外国人モールなる人物が鮎漁を行っており、兎狩や鮎漁で名高く頻繁に要人が訪れる多摩村での特徴的な勤務の一端が知れる。二十三年六月十七日は「高橋査吏下女寄留調ニ来」とある。戸口調査は巡査の重要な任務だった。七月一日には「日吉警部巡査弐名護衛」のもとで第一回総選挙の投票が行われ、翌日には「警部一名巡査八名附添」で投票箱の移送が行われている。十月一日には富沢英三郎方の土蔵が破られ衣類が盗まれるという事件が起きたが、四日、高橋巡査が大丸でこの「賊ノ内壱人」を逮捕するお手柄をあげた。二十五年の第二回総選挙は全国で官吏や警官による厳しい干渉が行われた。三多摩でも厳しい選挙戦が展開されたが、二月十二日の三崎警察署長と高橋巡査の訪問もこれに関係したものだと思われる。
 また当時の巡査は政府の手先となって住民を監視する者として疎んじられたり、巡査自身も高圧的に住民に接したりすることも少なくなかった。高橋巡査は富沢政賢の村長就任祝いや結婚祝いに顔を出しているが、村民はこの背後にある住民監視の面よりも、むしろこのような姿勢に好感を持ったようである。これは三十三年二月九日、八王子警察署宛ての高橋巡査留任請願の村会決議となって現れる。そこには「良民其業ニ安シ殆ト嬰児ノ慈母ニ於ケル」ようであり、巡査の転任には「人民一同失望」していると記されている(富沢政宏家文書)。
 これに対して後任の巡査の評判は最悪だった。三十五年六月十七日、富沢村長に提出された有志者総代理由書の概要は次のとおりである。
 巡査某は素行が悪く威権を濫用し、住民を奴隷のように見て、暴慢狂態を尽している。私達は初め不平の住民を説得して我慢してきたが、今や巡査某の狂態その極に達し、もはや忍ぶべくもない。巡査某の非行を挙げれば、収賄の風評、女子との私通の風評、禁漁中の鮎を食した、女子を誘って人気の無い山中へ連れていったという風評、などであり、その他言うに耐えない風評が百言流出である。巡査某を放逐し、高橋巡査を用いられることを熱望します(富沢政宏家文書)。

 事の真偽は不明で、この巡査にも言い分はあろうが、何とも嫌われたものである。ただ巡査という存在が村民の生活に大変深く浸透したものであったと、いうことができるだろう。