伝染病と衛生組合

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明治時代は伝染病との闘いだった。コレラ、腸チフス、天然痘、赤痢、ジフテリア、ペストなどが入れ代り立ち代りに流行して人々を苦しめた。特にコレラの猛威はすさまじく、十二年と十九年には全国の死者一〇万人を超え、二十三年にも三万人以上の死者が出ている。全国的には十年代末から二十年代初頭にかけて衛生組合が設置され、三十年四月の伝染病予防法施行により伝染病対策が整備される。
 多摩村では明治二十三年(一八九〇)八月初旬から全村に衛生組合規約が回送され、臨時衛生組合を設けて各組合一人の組長を選出した(富沢政宏家文書、伊野弘世家文書、石阪好文家文書)。規約は数点が残っており、関戸では一号から五号に分かれ、そのうちの三つに二人の組長がおり、その他の大字にも複数の組長がいる。落合の小字名をとった上之根組もあり、同じく山王下組合には二人の組長がいる。このように、臨時衛生組合は大字よりも小規模な、住民の生活に密着した単位で組織されていた。また規約には「組合中ノ小部分ノ伍組」の文字もあり、より細分化された隣組的な組織体制で衛生についての相互監視を行おうとするものだったと思われる。
 規約から組合員の役割を掲げれば、①各自相互に監督し、居室の内外を清潔にすること②不潔の挙動をするものがあれば監督し、応じない時は組合に報告すること③各自暑気にあたって吐瀉するなどした時は直ちに医師の診断を受け、流行性の場合は報告すること④これを隠すものがあれば近隣および組合で厳重に注意して監督者に報告すること、などであり、規約というよりも各自の心得のようなものであった。
 八月十七日、東寺方の寿徳寺で富沢村長がコレラ予防の訓示を行っている(「富沢日記」)。それはコレラ被害の惨状を訴え、清潔な生活が予防の第一だとして住民の意識向上を促すと同時に、これによって伝染病の不安を取り除こうとするものだった(富沢政弘家文書)。
 また県からは二十五年三月、伝染病患者予防消毒費は各市町村で負担するようにとの訓令があった。なお、二十七年二月二十七日には兆民学校に種痘所が開設され、村民への接種が勧められている(資三―181)。