村落の生活

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当時の人々の社会生活は今日思う以上に多彩で豊かであった。詳しくは「民俗編」をご覧いただくとして、ここではその一断面を列記しておこう。
 農作物は自然災害の影響を受けることもままあり、このような場合、「坪切」といって小作料が軽減された。明治二十七年(一八九四)には日照りが続き、五月十九日から八月十日の間は雨らしい雨が降らず、連光寺の春日神社ではしばしば「雨乞」が行われ、この年もやはり坪切が行われた(「富沢日記」)。ただし、村民の主食は麦飯で、米は出荷に回されていた。
 南多摩郡では養蚕や炭焼きが盛んで、規模こそ小さいが多摩村でも広く行われていた。また篠竹で作る目籠(メカイ、メカゴ)は特産品だった。生糸、木炭、目籠、米が現金を得ることのできる村の主要な出荷品で、他には多摩川の鮎や多摩氷が有名で、漁業組合や玉川氷商会が組織された。
 表1―4―8で戸数、人口の推移を見れば、明治期は特に大きな動きはなく、村の景観はのどかな田園風景だった。かといって一次産業ばかりだった訳ではなく、質業、荒物小売、米穀仲買、繭生糸仲買、材木小売、鶏卵仲買、呉服小売、酒類小売、魚類小売、青物小売、小間物小売などの商売が行われ、変わったところでは凧羽子板小売などもある。また村には建具職、鍛冶職、大工職、桶職などもおり、豆腐や傘なども作られ、旅籠や飲食店なども営まれていた(資三―217)。
表1―4―8 世帯数、人口の変遷
戸数・世帯数 人口
明治22年 535 3779
32年 536 3786
41年 579 4291
45年 587 4583
大正3年 649 4242
9年 707 4111
昭和5年 798 4497
15年 855 5158
25年 1343 7799
35年 1790 9192
45年 9602 29061
「資料編四」統計資料、「統計たま」、事務報告書より作成。

 村では自給自足の生活で、買物に行くことは少なく、普段は各家を回ってくる行商人から買うことが多かった。買物に出掛けたのは主に府中や八王子だった。府中へ行くには多摩川を渡らなければならないが、関戸に渡船場があり、人々はこれを利用した。水量の減る冬期は土を盛った簡易な橋を渡っていた。渡船業は昭和十二年(一九三七)に関戸橋が完成するまで続けられた。現在の京王線聖蹟桜ヶ丘駅(当時関戸駅)が出来たのは大正十四年(一九二五)のことである。現在の中央線(当時甲武鉄道)は明治二十二年(一八八九)四月に新宿と立川間が、八月に八王子までが開通した。多摩村の人々が汽車を利用するには「国分寺ステーション」(「富沢日記」)や日野駅まで行かねばならなかった。また、当時、村に医師はおらず、鶴川村の伊藤倭文満や七生村の大塚四郎右衛門などが診断にあたっており(富沢政宏家文書)、富沢家には府中の香山信斎が頻繁に来診している(「富沢日記」)。

図1―4―4 当時の多摩村の風景 連光寺より関戸・多摩川を望む。

 神社の祭りは村民の娯楽の一つだった。明治二十一年三月には向岡に競馬場が完成し(桜馬場)、三〇〇頭余が出走して競馬が行われ、同夜「教育幻灯会」が開かれている。連光寺にあった花本神社の祭りの際には、以後競馬が行われるようになった(「富沢日記」)。また当時は一般に政治熱が高かったようである。二十六年十二月には八王子で自由党の蟠龍館発会式が行われ、党員の伊野銀蔵はじめ東寺方、関戸、和田の有志が連立って日野駅から汽車で八王子へ向っている。会場は「立錐ノ余地」なく、代議士の演説や「煙火数十本」「撃剣数番」が行われた。二十七年二月には府中の高安寺で開かれた自由党の政談大演説会で、伊野銀蔵、佐伯太兵衛ら有志が板垣退助、山田東次らの演説を「傍聴」している(伊野弘世家文書)。