村の歳時記

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村びとはどのような生活をしていたか。表紙に「明治廿弐年丑一月 日記帳 南多摩郡和田村柚木氏」と書かれた日記帳(柚木健蔵家文書)が一年分ほぼ完全な形で残されている。柚木浅次郎によって記されたこの日記帳を手がかりにその日常をみてみよう。柚木家は近世期には名主総代をつとめ、当主は明治初期には組頭であった。日記によれば、田畑合わせて二町四反歩余、その他雑木山を所有し、家族構成は、浅次郎、妻おつる、母ゆわ、使用人一人、それに馬一匹で、当時の上層農家である。明治十五年(一八八二)の納税額は、一九円四一銭四厘(石阪好文家文書)、日記の中では田税その他を合わせると、年間二一円三六銭を納めている。
 主な生産作物は、米で、これは他所へ売る分もあり、他に大麦、小麦、粟、稗、蕎麦、大豆などをつくっている。自給の野菜は大根、さつま芋、えんどう、油菜、牛蒡など、特に炭は窯を作り年間一三〇俵余を売却している。他に七三歳の母が目籠を作り、家族共同で製茶や養蚕を営み、糸を採りこれを「新どうの糸や(注(1))」が買いに来ている。これらの多岐にわたる作業を大別し、月ごとにまとめたのが表1―4―9である。
表1―4―9 主要作業内容および延人員 月別一覧表
作業        月 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
農作物 稲作 1 1 13 49 1 12* 18 50 1
大麦小麦 3 2 6 2 15 27 28 3 42 11
畑仕事 3 18 17 6 38 16 45 18 4
肥料 くずはき くずまるき 7 19 3 2 5 9 15
肥料作り 7 7 1 2 3 4 10 2
草刈り 草むしり 3 3 30 8 5 7
その他の作業 馬つくろい 1 1 2 1 1 1 3
わら仕事 俵あみ 7 8 10 3 2 3 6
米つき 1 4 1 2 1 3 6 3 5 6
炭焼き 炭俵あみ 15 1 6 3
製茶 4
養蚕 4 2 6 2 14 1 1
目籠 2 3 2
内しごと 4 6 4 4 1 8 3
松木伐 松板引 8 20
堰普請 9
人形こしらい 3 3
府中買物 8 3 2 2 3 2 2 3 3 1
新屋普請 9
小屋・湯屋作り 25 4
稼働人員 浅次郎、久蔵(3月2日年季明)→丑太郎(3月17日雇)
     おつる、米吉、母
手伝人  寅吉、良作、勇作
「日記帳」(明治22.1.1~12.31)柚木健蔵家文書より作成。
注)*田の草とり

 まず、正月は「家内一同休」が三が日続くが、その間年礼の人が訪れたり、親戚近隣への年始回りが頻繁に行われている。「新屋の婿咄し、結納」などがあると、口がための相談、仲人お礼と人の出入りが多い。またほとんど毎月誰かの家を宿にして「月並念仏」、「たのみ念仏」の集りがあって、夕方から夜にかけて女衆が出かけた。二月は、「十一日初午にて家内一同休」。越中の薬屋が回り、大塚半増坊の餅投に行く。三月は一年のうち農作業が最も少ない月で、それゆえ新屋の婿とり婚礼があり、「三ツ目新客(注(2))の馳走に行」。寺方観音や連光寺の桜馬場へ馬かけの見物に行き、武州みたけの御師(おし)や、「三河国のまんらく(注(3))」が回って来る。近村との往来や、信仰に関する記述も多く、四月には榛名山への代参者からお札が配られ、五月に母は府中(大国魂神社か)のお祭りへ作男を供に連れて行くが、彼の方は遊びほうけて三日目に漸く帰宅。しかしその後は、畑仕事、田植えの準備、「苗ふり」、「くろぬり(注(4))」と、応援人も二人ほど雇い忙しい日々が続く。特に六月は、田仕事、麦作、養蚕と一日も休みがなく、雨天でも「くろよせ」、田すき、くろぬりに追われている。
 七月、梅雨の大雨のあと、大栗川は氾濫し、壊された橋や堰の修理作業に、人足として、八日間ほど出勤しなければならず、一回目の麦の収穫と重なり、麦こき、棒打、草むしりがほとんど毎日続くなか、六日の三日正月の休日と二十四日の愛宕山神社のお祭りで一息つくのであろうか。八月は一日が八朔で半日休み、盆には使用人は宿下りをし、またあちこちから盆節句の品物のやりとりがあるが、当主は乞田の吉祥院へ白米二升を持参する。この月の終りにも三日正月の休みと風祭りの半日休みがあるとはいえ、秋蚕の世話に母と共に励む頃でもある。そして九月、当時も台風が襲ったのだろうか「大風雨にて田畑荒柿木折屋敷あらす、損害金三十円位」とある。そのようななかでも夏祭りは盛大に行われ、鎮守十二社の掃除、旗立て、御神酒上げに、舞台作りにと男衆はとびまわり、神楽の音が賑やかに鳴る頃、瓜生(貝取の小字)に嫁いだ娘が孫達を連れ泊りがけでやって来て、お神楽を家内中で見物に出かける。神酒代、神楽料は戸数割で集めたとある。一方大工二人を数日間雇い、風雨でいたんだ家の修理をたのみ、「くねゆい(注(5))」は自分で行っている。十月は畑仕事が多く、また本格的な収穫期で、稲刈り、大豆と粟の棒打、稲こきなど、今の動力万能とは無縁の、全て人の労働力による農作業の毎日である。馬小屋の肥料出し、笹刈り、俵編み、草むしり、味噌作りと広範な仕事を数人でこなしていたのであろうか。十一月も同様に稲刈、稲つみ、稲こき、大麦小麦の麦地こしらえと、麦播に明け暮れて一日の休みもない。農具(といっても鍬やふりまんがんであるが)は、作業が一段落すると新調や作りなおしに出すため、府中まで出かけていった。
 十二月には、冬に備えて薪炭用の松木その他を伐り、自分の家まで運ぶ。家の中では煤払い、障子張り、門松立と新年を迎える支度が手順よくすすめられ、日記の最後の日、浅次郎は府中の晦日市でささやかな買物をして一年をしめくくるのである。
注(1)和田村真藤弥左衛門か。明治六年生糸渡世(資三―67)。

 (2)婚礼三日目の祝いに夫婦で嫁方の実家を訪問すること。

 (3)万歳、万歳楽ともいう。太夫と才蔵の二人の芸人が滑稽な掛合をする。主に三河の国からまわってきた。

 (4)畔塗。水田の水が漏らないように、畔を田の土で塗り上げること。

 (5)竹などであんだ垣根、いけがきをひもで結ぶこと。