明治二十年代前半の政治運動

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明治十九年(一八八六)十月、星亨は浅草井生村楼で開かれた全国有志大懇親会で、小異を捨てて大同につくべきことを説き、国会開設を前に、自由、改進両派の合同を訴えた。ノルマントン号事件で条約改正問題が白熱する十二月、後藤象二郎は東北遊説に出発し、大同団結運動は全国に波及しはじめた。また、片岡健吉は地租軽減、言論集会の自由、外交挽回を掲げた建白書を元老院へ提出した。いわゆる三大事件建白運動の開始である。運動の高揚に対し政府が施行した保安条例の適用を免れた後藤や大石正巳らは、雑誌『政論』で地方名望家へ地域的団結を呼びかけると、二十一年七月から北陸、東北、関東諸県への大遊説を開始して大同団結運動を推進した。神奈川県では九月十八日、横浜で後藤伯招待有志大懇親会が開かれた。二十二年二月十九日、再び神奈川を訪れた後藤は浦賀での懇親会で大同団結を説き、改進党を非難して大いに気勢を上げた。しかしその翌月、後藤は黒田内閣へ逓信大臣として入閣し、世間を唖然とさせたのである。
 後藤の入閣によって領袖を失った大同団結派は分裂した。全国的な政社結成によって運動の継続を望む河野広中ら政社派は大同倶楽部を設立した。政社化を望まず緩やかな連合体として運動を行うことを主張する大井憲太郎ら非政社派は大同協和会を設立し、二十三年一月には自由党を結成した(再興自由党)。一方、板垣は愛国公党を組織した。しかしその後、第一議会を前に合同の気運は高まり、三派合同による庚寅倶楽部が結成された。
 神奈川の旧自由党系の人々の多くは非政社派に属した。再興自由党結党式に参加した八一四人中、神奈川県人は実に二六二人だった。関東自由党は従来から大井ら旧自由党左派の基盤であり、特に鶴川村の石阪昌孝、村野常右衛門、七生村の森久保作蔵配下の三多摩自由党はその中心勢力だったのである。しかし、来たるべき総選挙を念頭に、二十二年六月に結成された神奈川県倶楽部は、政社派や改進派の人々も参加した全県規模の緩やかな大同団結組織だった。
 二十三年七月一日、第一回総選挙が行われた。選挙権は二五歳以上、被選挙権は三〇歳以上の男子で、共に直接国税一五円以上を納める者に与えられたが、有権者は全人口の一・一四%に過ぎなかった。ちなみに、多摩村では二十四年に直接国税一〇〇円以上の納税者は三人で、特に多いことはないが、一五円以上一〇〇円未満の納税者は六四人にのぼり、三多摩では稲城村、鶴川村に次ぐ断然の多さだった(梅田定宏『三多摩民権運動の舞台裏』)。立候補者の約七〇%は府県会議員経験者であり、有権者のほとんどが土地所有者という地主選挙だった。民権派は大同団結運動を通して地方への勢力扶植に成功しており、選挙結果はいわゆる民党側の圧勝だった。多摩村では向岡小学校を会場とし、富沢村長らの立会いのもと、巡査ら二人の臨席で投票が行われた。多摩村を含む三多摩郡は神奈川第三区として二議席を競い、三多摩自由党が候補に立てた石阪昌孝と西多摩の瀬戸岡為一郎が当選した。
 選挙後の九月十五日、旧自由党系三派と九州同志会は合同して立憲自由党を組織し、議員一三〇人を擁する第一党となった。これに改進党の四一人を加えると、三〇〇議席の過半数を民党勢力が占めることとなったのである。
 二十三年十一月二十九日、日本で最初の国会が開会し、民党は「政費節減、民力休養」を掲げ、予算をめぐり政府と対立した。予算問題で紛糾した議会は「戦争之如キ有様」だったという。自由党左派は議場の内外に壮士を動員して党内の妥協的意見を封じにかかった。多摩村にも森久保から二人の議事「傍聴」が依頼され、富沢政恕や政賢が国会に行っている(資三―190、「富沢日記」)。しかし政府の切り崩し工作は成功した。予算確定前に政府の同意を求めるという緊急動議に対し、自由党の片岡健吉ら旧愛国公党系の二六人が賛成に回ったことが引き金となり、政府原案から約六五〇万円を削減する予算が政府と議会の妥協で成立したのである。「土佐派の裏切り」と呼ばれる事件である。土佐派を中心とする二九人の議員は自由党を脱党し、自由倶楽部を結成した。