神奈川県では都筑郡の自由党員佐藤貞幹らにより、「地価修正請願書」が閉会中の貴衆両院へ提出された。第一議会終了後に地価修正派の全国的結集が進み、二十四年五月には大阪に集まった一府一九県の代表者によって地価修正請願同盟が結成され、第二議会開会前には二府二二県が組織された。同盟会の調査によって神奈川県の地価が他府県に比して過当であることが明らかになると、県下の活動は活発化し、政党の枠を越えて橘樹、久良岐、都筑三郡地価修正請願同盟が結成されたのである。三多摩における組織化は明らかではないが、多摩村では富沢政賢、有山十七造、伊野権之助、杉田吉兵衛ら村内有力者二四人により、貴族院宛に佐藤らのものと同様の請願書が作成されている(資三―193)ことから考えて、この地域も同盟会に参加していたものと思われる。請願書の概要は次のとおりである。
明治六年(一八七三)の地租改正条例によって地租改正作業は十四年(一八八一)まで続けられたが、「当時運輸交通ノ便」が不充分だったこともあって「全国ヲ串通スル米価」もなく、「精確ノ算定」は行われなかった。運輸交通の便が大いに開けた現在では全国的な米価の格差もなくなり、これによって各県の地価を比較すれば「貴賤高低ノ差」は明白である。現行地価は甚しく「不平均」であり、先般政府の行った地価特別修正も「頗ル不充分」である。そこで「全国一ノ負担ヲ為サシムル」ため、各府県で調査した「最近五年間平均ノ米価」を標準として全国の「耕地ノ地価ヲ改算」することを請願するものである。
このような要求が続いていく経済的背景には、二十三年以来の米価の高値安定という状況があった。地租は固定税率であるため、米価の上昇は実質的負担を減らし、全国的に平等な負担を求める地価修正要求が行われるようになるのである。これとは逆に地価修正では恩恵を受けない地方では地租軽減を要求していく。地租を巡るこの二つの要求は地域的利害に基づくものだった。貴族院の再三の否決で地租軽減が行き詰まるなか、地方有力者の意識変化は、自由党が民力養成を掲げて積極主義へ転換した要因の一つだった。この後、自由党の民党的性格は薄れていくのである。