選挙大干渉

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明治二十四年(一八九一)十一月二十六日、第二議会が開会した。民党側はまたしても政府予算案をことごとく否決したため、遂に衆議院は解散となった。民党候補再選を憂慮する明治天皇の意を知った松方首相は選挙干渉を決意し、品川弥二郎内相は地方官吏や警察官に命じて民党候補の選挙運動を妨害し、吏党候補者を支持させたのである。選挙干渉下の運動は壮絶を極め、全国で死者二五人、負傷者三八八人を数えたという。選挙戦中の二十五年二月十二日、前節でも述べたように、三崎警察署長と高橋巡査が富沢家を訪れているが(「富沢日記」)、多摩村では特に目立った動きはなかった。
 自由改進両党は協力して選挙にあたることを決め、将来の合同もみすえて民党としての勝利を期した。三多摩では自由党から石阪と瀬戸岡が立ち、吏党側からは吉野泰三と八王子の平林定兵衛が立候補した。両派の壮士による抗争は激しく、自由党の一大拠点であることから政府側の干渉もまた厳しかった。多摩村に警察署長が訪れたのと同日の二月十二日、内海忠勝知事は松方に状況を報告している。
……八王子ハ、昨今最苦戦中、今朝まてニ巡査も百名斗操出し置候ニ付、大体保護も届き、旧議員石坂、瀬戸岡両人共打倒し、味方之全勝かと相考申候、併し、此場処ハ多少之争闘ハ免かたし、今明日中ニハ必す打合之急報位ハ有之事と……(『松方正義関係文書』八巻)

 三多摩壮士指導者の村野が自宅で、森久保が府中分署で身柄を拘束されるなか、内海の予想に反して石阪と瀬戸岡は当選した。三月一日には自由改進両党有志により、神奈川県民党代議士歓迎会が横浜で開催された。しかし選挙戦の火種はくすぶっており、南多摩郡ではこれに関係すると思われる二件の殺人事件が起きたのである。
 選挙後の第三議会では選挙干渉についての内閣の責任が問題となり、貴族院で「選挙干渉処分の建議案」、衆議院で「内閣問責建議案」が可決された。品川内相は既に引責辞任していたものの、政府内でも選挙干渉批判の声は強く、七月二十日に松方内閣は退陣した。県下でも選挙戦中から抗議が続けられ、十二月十二日の県会では県知事と警部長の罷免建議案が可決された。このため県会は解散されたが、このような県下の動向が、次節で述べるように内海知事に三多摩移管を決意させたのである。