第一議会を通して、立憲自由党は党内各派の無統制ぶりを露呈した。さらに議員(院内団)を圧迫する壮士ら院外団の弊害も問題となり、星亨の主導により、第二議会を前にした明治二十四年三月と十月の党大会で党内改革が断行されたのである。三月には党名を自由党と改称し、「土佐派の裏切り」の責任をとり脱党していた板垣を復党させて総理(党首)に選出した。また、院外党員が過半数を占める常議員会を参務会と改称し、これを党の議決機関から諮問機関に変更した。更に常議員会から選出され、党の運営に当たる五人の幹事を総理の任命制とした。十月には参務会を廃止し、代議士総会を制度化するとともに、党大会を代議士と各府県選出の二人の代議員により運営することとした。自由党は総理権限を強化して指導力を高める一方、院外団の弊害を排除して議員中心の院内政党化を果したのである。
関東会を基盤として、三多摩壮士を中核とする院外団の実力を背景に党内左派を形成していた大井憲太郎はこの改革に反発した。しかし二十五年二月の第二回総選挙で落選したことが、大井の立場を決定的に不利なものとしていた。大井は関東会を政社化することで党内の発言権を回復することを狙い、四月の大会で党を地域の連合組織とすることを提案したが、この建議は認められず、大井は脱党して東洋自由党を結成した。関東会の中心である神奈川自由党も、石阪をはじめ脱党に傾いていたが、星の根回しと村野の「理由ナキ脱党ハ出来ヌ」(『利光鶴松翁手記』)という主張により、自由党に留まることが決まり、関東会各県の自由党も同様に残留を決めた。これにより神奈川自由党は、左派少数の大井から、党主流の星の配下へと鞍替えしたのである。
さて、第三議会を経ると、地租軽減を具体策とする民力休養の行詰りや、地方有力者の要求などを背景として、民党側も積極主義を否定ばかりしていられなくなった。この状態をいち早く察して党をまとめたのも、やはり星だった。大井脱党後の二十五年七月三十日、自由党政務調査局は「積極ノ事業ヲ経営」として産業を振興し、「民力ヲ養成」するという方針を発表し、第四議会開会中の党大会では「現内閣ヲ信用セザルモ積極的ノ手段ヲ執」ることを方針とした。ここに至って民党連合を積極的に推進してきた改進党の島田三郎は民力休養路線の堅持と積極主義の批判を展開した。自由党はこれを自党を非難するものだとして改進党を批判し、民党連合の流れを完全に閉ざしたのである。
第四議会はまたしても民党と政府が予算を巡り対立し、休会数度に及ぶ混迷の様相を呈した。事態を収拾したのは天皇の「和協の詔勅」だった。議会に対しては自重を求め、政府に対しては行政整理を命じ、建艦費については皇室費からの支出と官吏の俸給を削減してこれに充てることとなった。政府は政費節減、行政整理、海軍改革を議会に約束し、原案から約二〇〇万円を削減する予算を成立させた。軍拡のための政費節減だったにも拘らず、これを期に消極政策は達成されたとして、自由党は積極政策を掲げて政府との接近を公然と進めて吏党化するのである。