移管の背景と府県知事の上申

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明治二十六年(一八九三)二月二十八日、「東京府神奈川県境域変更に関する法律案」が貴衆両院を通過したことによって、同年四月一日から西多摩、南多摩、北多摩の三郡は東京府へ移管されることとなった。しかしこの法案提出は、その直後から賛否両論の一大問題を引き起こしたのである。
 この問題は多摩川および玉川上水の管理、水源の涵養林保護といった東京府の水道問題に端を発している。例えばコレラが猛威をふるった十九年には、患者の汚物が多摩川で洗濯されたとの報道から東京中が一時パニックとなり、二十四年には東京府に何ら諮問されることなく、西多摩郡民の希望で、水源林伐採が許可された。東京府民の生活用水である玉川上水は神奈川県の西北多摩両郡を横断して府内に入るため、東京府では常に管理上の不便を感じ、これまでにも境域変更の上申や流域の用地買収等を行っていたのである。
 二十五年九月二十日、富田鉄之助東京府知事と内海忠勝神奈川県知事は井上馨内務大臣へそれぞれ三郡の東京府移管上申を提出した。ここで貫かれているのは、水源保護や衛生の点から、どうしても境域変更が必要であるという東京府長年の主張だった。上水とは無関係の南多摩郡については、民情習俗、経済圏等の点から西北二郡と共に移管されるべきだとしている。やや遅れて十月十三日、同様の理由から園田安賢警視総監も三郡の移管を内務大臣へ上申した。しかしこの上申は、水源保護上の理由から移管を希望するが、警察事務上は不便であり、また南多摩郡の移管については切実な希望ではないが、地理人情の点からこれを分けるべきではないという消極的で歯切れの悪いものだった。
 さて、富田知事が水道問題解決のため西北多摩二郡の移管を内海知事に申し入れると、内海知事は、三郡のために巨額の治水費を要し、しかも「同地方ハ自由党の巣窟」であるため県会でも「不都合の事も少なからず」、「統治に困難なし居る次第」であり、さらに南多摩郡は「実に自由党が根拠の地」であるので、三郡まとめて引き取ってくれるよう逆に申し入れたという(『国会』明治二十六年二月二十五日付)。また、園田総監が上申をした直後の十月十九日、内海知事は井上内務大臣に宛てて書簡を送っているが、その概要は次のとおりである。
 「三郡之奴等」は春以来知事放逐運動を頻りに試みており、本年の県会では一層攻撃してくると聞いています。「知事を放逐するより知事が三多摩を放逐する方」しかるべしと考え準備してきました。県会開会前の発表は昨日のご説明であきらめましたが、本年の議会へは必ず御提出下さい(『東京市史稿』市街編 八四)。

 自由党が絶対の勢力を有する神奈川県会は選挙大干渉の責任を厳しく追及し、知事と警部長の罷免建議を可決した。このため県会は解散されたが、このような県会の追及を開会前から予想していた内海知事は神奈川自由党の分断を狙い、自由党勢力の弱い東京府へ三郡を移管しようと考えたのである。神奈川県側の政治的事情と東京府側の宿願が一致したことによって両知事の上申が行われ、このような状況で上申書提出を求められた園田総監も渋々同意した、というのが真相であろう。