第四議会閉会間際の明治二十六年(一八九三)二月十八日、移管法案が政府から提出された。法案提出後にまず動いたのは、神奈川自由党の重鎮、石阪昌孝だった。十九日、石阪は同盟倶楽部を訪問して移管反対を申し入れ、自由党代議士総会で法案否決の意見を述べて運動を開始した。これにより、「神奈川県の狭小に失し一県を維持するの上に於て困難少なからざる」との理由から、自由党は二十一日の代議士総会で法案の否決を決議したのである。これに対して改進党は法案賛成を決め、北多摩正義派の吉野泰三らが所属する国民協会も法案賛成の方針でまとまった。同盟倶楽部では特に党議拘束はかけなかったようである。このような政党の動きの背後にある政治的な思惑は、当時から新聞各紙で報道されていた。すなわち、神奈川自由党にとって多摩が自由党地盤の微弱な東京府に移ることは、勢力の分断と弱体化を意味し、中央自由党にとっても第一回総選挙以来二人の代議士を出している肝要の地であるので法案には反対した。逆に、東京府下に勢力を有する改進党は勢力の伸張を期待できることから法案に賛成した、というものだった。また一方では吉野らと神奈川自由党との対立があった。北多摩を地盤として勢力拡大を狙う吉野らは、県内に一勢力を持つ高座郡の改進党員、山宮藤吉を説き、山宮は自由党にかわり自派の勢力を県会で伸張させるため賛成に動いたという(渡辺鉄城『三多摩政戦史料』以下『政戦史料』とする)。三郡移管は先の内海知事の意向に加え、政党の党派的思惑によって非常に政治色の強い問題となっていった。
ただし、法案提出直後の自由改進両党の議員には「本案は党派問題にあらず実に自由問題なれば直に可否如何に就いて即答しがたし」と答える者も多く(『毎日新聞』二月二十二日付)、驚くことに自由党の中には「賛成を承諾」する議員すらいると伝えられている(『東京日日新聞』二月二十三日付)。二十一日の反対決議以前の状況である可能性もあるが、十九日の総会でも石阪が法案否決を訴えているのである。
二十一日、法案は衆議院の日程にのぼり、大森鐘一政府委員が水道問題上から西北多摩二郡の移管が必要であり、両郡と密接な関係にある南多摩郡を別にすることはできない、という法案提出の理由説明を行った。続いて行われた質疑応答で、自由党の山田泰造と折田兼至が住民の利害と移管の希望について質問した。大森は、住民から希望を受けた訳ではないが、住民の利益にはなっても害になることはないと述べ、移管法案が地域住民とは関係のないところで、その政治的内実は伏せたまま、ただ行政上の便利ということで提出されたことを明らかにした。次に法案を無期限で特別委員会に付託することが可決され、議長星亨の指名により九人の委員が選ばれた。