移管反対派の運動

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反対運動の中心は自由党県議らと三郡の町村長らだった。二月二十一、二の両日、岡部芳太郎や鈴本稲之助らの県議は代議士、市会運動委員らと面会し、県議および人民総代数十人の連印で政府および府知事に法案の撤回を陳情した。この二十二日、南多摩郡の町村長月次会では、町村費から運動費を支出し、町村長および町村議は上京して反対運動を行うことが決まった。その他各郡でも陳情等を行うことに決し、二十三日には数十町村から請願書が提出された(『国民新聞』二月二十四日付)。多摩村で調製された請願書では「従来ノ慣習ヲ破砕シ人民ノ失意ヲ省」みないものであるとして三郡移管を厳しく批判している(資三―202、図1―4―5)。

図1―4―5 三多摩東京府編入案否決請願書

 二月二十四日、八王子町長大平安三ら三郡の町村長四八人が上京し、衆議院議員と内閣へ移管反対の陳情を行った。「泣血百拝貴衆両院議員諸君ニ哀告ス」という請願書で、彼らは住民の意向を全く無視した突然の法案提出への怒りを憚ることなく述べている。南多摩全郡二〇町村、西多摩全郡二三町村、北多摩五か村の町村長、助役の署名の中には、多摩村長富沢政賢の名も見ることができる(資三―206)。そして二十五日以降、これら町村長らがその反対意志を示すため、一斉に辞職したことで、三郡の行政機関は完全に麻痺したのである。また後には津久井郡の町村長らも同様に一斉辞職している。
 ところで「富沢日記」では、政賢が役場で事務を執ることを、ごく少数の例外を除き「役場出務」と表現している。しかし辞職後の二十六日を最後に、再選後の村長当選認可辞令が届いた翌日の四月十七日に「本日午前役場江出務」という記述が復活するまでは、「役場行」と記されている。記載者は父の政恕であるが、このような単純な語句の使い分けの中にも、当時事件の渦中にいた人物の、何か意識的なものが感じられるといってよいだろう。また、法案提出後の二月末から四月末にかけ、例年に比べて政賢が八王子に出かける日数が増えていることも注目される。後に辞職町村長らは八王子に仮事務所を設け、境域復旧の運動をしていくのである。
 さて、小島貞雄、露木要之助の両県議は二十五日、市会を訪れて運動委員の仁杉英と会談をもったが、仁杉の「交渉は断然拒絶す」という回答により、両派の交渉はここに決裂することとなった(『自由』二月二十六日付)。二十六日には県議五〇人により請願書が調製されたが、ここで最も主張されているのは、三郡は県の「財源ノ府」であり、これが移管されれば県は財源を失い、自治の基本を欠くという、県の経済上からの反対意見だった。この請願書には横浜市部選出の県議一五人全員の署名がある。県会で郡部に圧倒されている市部県議が反対派として行動したのは、移管による県財政基盤の縮少が、市部の負担増加につながることを警戒したからであった。