委員会の議論は連日平行線をたどった。多摩村の伊野銀蔵宛の書簡に「委員会ニ於テハ先ツ握リ潰しト之由」とある一方(資三―204)、「政府案を賛成して三多摩郡を東京府の管轄に変更する形勢」とも報道されていた(『毎日新聞』二月二十六日付)。そのようななか、反対派にとって非常に不利となる事件が起きた。二十六日深夜から二十七日未明、西多摩郡羽村上水入口に架した一投渡木(イチノトナギ)が何者かによって取払われ、四谷大木戸の水量などは一尺五寸を減じたのである。反対派の犯行とみせかけた賛成派の謀略であるとした『万朝報』を除き、新聞各紙は自由党壮士の犯行としてこれを批難した。そして県警と警視庁の厳重な警戒体制のなか、反対派壮士数人が検挙されたのである。彼らは証拠不十分で釈放されたものの、この事件によって中立だった議員の多くが賛成に回ったという。しかも中央自由党では、既に会期末であり、本期中に議了することは無いとの見通しから、「同志議員の結合及び同盟倶楽部等」への交渉は行わなかった(『朝日新聞』二月二十四日付)。つまり法案否決に最も重要な党内意志の統一と多数派工作が行われていなかったというのである。
そして二十七日には、前述のように牧議員が委員会の決定報告を要求し、議事日程変更の緊急動議を行った。激しい議論の後に行われた採決は賛成側起立多数となったが、自由党の藤野政高の異議により氏名点呼で再度採決をとったところ、九五対九七で動議はかろうじて否決された。
二十八日の委員会では各自の意見陳述の後、法案の可否について採決が行われたが、賛成派は少数の三人だった。法案は委員会で否決されたのである(「帝国議会衆議院委員会議録」)。当日の議場は反対派郡民数百人が傍聴席に入り、賛成派は一七〇を超えた承諾議員を一人も洩らさないよう運動を続けたという(『朝野新聞』三月一日付)。衆議院では自由党の工藤行幹が委員会での否決の報告を行ったが、それは神奈川県の経済が成り立たないこと、住民の負担が増すこと、移管をしなくても上水管理はできること、請願書署名数や町村長辞職の現状を見れば住民は移管に反対であることなどを理由とする反対意見の集大成だった。しかし第二読会開会の採決は可とする者一三三、否とする者一一〇であり、即時開会の採決は可とする者一三三、否とする者八八であった。第二読会の即時開会が可決され、大勢は決した。原案のまま衆議院を通過した法案は、貴族院では大多数をもって可決された。議会最終日、遂に法案は成立したのである。