さて、法案可決という議会での敗退が反対派の運動終結を意味していなかったことは表1―4―10を見ても明らかである。移管反対運動は境域復旧運動に形を変え、衰えることを知らなかった。しかし一方、議会閉会直後の三月三日、神奈川県議らから第五議会への境域復旧議案提出の要望を受けた石阪昌孝は、これを「自由党代議士総会へ提出して賛成を乞」うたが、「同党代議士ハ其不可を説」いたという(『万朝報』三月五日付)。法案成立からわずか三日後、激しく気勢を上げる境域復旧運動は、党中央では既に終わった問題だったのである。さらに「自由党ハ…往々情弊の為に掣肘せらる(境域変更に対する如き其一証なり)左れバ総理ハ疾く之を憂ひ居れバ今日の総会ニ於て之が匡正を議する」という記事がある(『万朝報』三月三日付)。自由党総理である板垣の真意は、当日の演説で明らかである。板垣は移管問題を地方的問題と考えており、「党を掣肘する情弊」とは、その認識によれば、「地方感情」により「中央を攪乱」されることだった。移管問題のごときは「小事」、棄てるべき「小戦」だったのである(『党報』三二号)。
日付 | 会場 | 形態 | 出席者 | 演説者・題目・決議事項 | 出典等 |
明治26年 | |||||
3.5 | 西多摩郡青梅町初音座 | 大懇親会 | 町村長はじめ有志者2000余人 | <決議事項>三多摩郡復活期成同盟事務所の設置。一郡に4人の交渉委員を置き三郡一致の運動をする。各町村に1人の運動委員を置く。<演説者>馬場勘左衛門ら8人 | 東京府の資料では出席者750人。 3.7『自由』 |
3.7 | 南多摩郡八王子町本町 | 三郡交渉会 | 一郡5人の交渉委員と有志総代計34人 | 第5議会への復旧請願書提出 | 東京都公文書館蔵 「明治廿六年庶務要録」 |
3.7 | 南多摩郡八王子町関谷座 | 演説会 | 1500余人 | 飯島福太郎(多摩郡民を殺す者は誰ぞ)、比留間邦之助(上水濫費の弊を論ず)、土方篠三郎(境域変更に反対の理由)、馬場勘左衝門(西多摩郡の人情風俗と東京府)、松村音大郎(内海知事と富田知事の関係)、田代森造(多摩郡民多数の決心)、山田東次、溝口市次郎 | 3.9『自由』 |
3.8 | 西多摩郡氷川村 | 大懇親会 | 数100人 | 運動方法の協議等 | 3.11『自由』 |
3.14 | 橘樹郡中原村 | 演説会 | 3000余人 | 山田泰造(第四議会の経過)、山田東次(東京神奈川境域変更に就て)、ほか板垣退助を含め計5人 | 3.16『自由』 |
3.14 | 横浜市勇座 | 演説会 | 1500人以上 | 伊藤重吉(境域変更に就て)、溝口市次郎(法律第十二号を論ず)ほか計7人 | 溝口中止を命じられる 3.16『自由』 |
3.14 | 北多摩郡調布町蓮慶寺 | 演説会 | 3000余人 | 大根田達吉(三多摩郡の病体)、土方篠三郎(境域変更に反対の理由)、石井直平(三多摩郡民将来の覚悟)、井上吉之助(神奈川県と東京府との経済)、飯島福太郎(三多摩郡民を殺すものは誰ぞ)、鎌田訥郎(三多摩郡民)、越山篤次郎(治安執れに在る乎)、山田東次(境域変更に就て)、溝口市次郎(法律第十二号を論ず) | 溝口中止を命じられる 3.16『自由』 |
3.14 | 西多摩郡草花村藤棚 | 集会 | 500余人 | 初音座大懇親会で決議した西多摩郡交渉委員、各町村委員と共に運動する。全郡を巡回して演説会を行う。南北多摩郡有志者と協議する | 3.17『自由』 |
3.18 | 高座郡渋谷村沢屋 | 有志懇親会 | 500余人 | 山田東次ほか数人の演説 | 3.22『自由』 |
4.5 | 南多摩郡八王子町 | 三郡交渉会 | 80人 | 役場再開、復職の協議 | 4.11「東京日日新聞」 |
4.5 | 高座郡大沢村長徳寺 | 演説会 | 1500余人 | 長谷川彦八(神奈川県境域変史を論ず)、溝口市次郎(弊政の革新)ほか石阪昌隆孝を含め計11人 | 4.7『自由』 |
4.21 | 北多摩郡久留米村多聞寺 | 演説会 | 1000余人 | 田中午太郎(境域変更に就て)、田中新蔵(境域変更に就て)ほか河野広中、石町昌孝を含計10人 | 『自由党党報』36号 |
4.22 | 津久井郡与瀬駅慈眼寺 | 演説会 | 石阪昌孝、土方篠三郎、岡部芳太郎ほか計10人 | 『自由党党報』36号 |
四月五日、富田知事は町村長らの辞職で依然行政事務の麻痺している三郡の巡視に出発した。この日、辞職町村長らは三郡交渉会で役場再開、町村長復職等について協議を行っていた。このうち代表委員に選ばれた土方篠三郎(七生村)、富沢政賢(多摩村)、大平安三(八王子町)、井上吉之助(鶴川村)らが八王子の知事宿所を訪れ、境域復旧請願をするので、諸制度を神奈川県の方式に据置くよう申し入れた。そして翌六日、八王子を出発して青梅町へ向う知事一行が羽村付近にさしかかった時、梵鐘を打ち鳴らし、蓑笠をまとい、「自由党万歳」「境域変更」などと書かれた旗を持つ数百の群衆が一行を取り囲んだのである。群衆はわだちに棒を差し入れ、土塊や石を投げつけ、罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせかけた。その後無事青梅町へ到着した知事のもとへ押しかけた談判委員との間で交渉がもたれ、租税賦課と境域復旧について申し入れがあった。新聞各紙はこの事件を徹底的に批判し、彼らに「暴民」のレッテルを貼ったのである。十八日の園田警視総監巡視の際、三郡は既に「至極平穏」だったという(『東京日日新聞』四月二十二日付)。
次に県会議員を中心に神奈川自由党の動向を見ておこう。三月十五日には横浜旧公道倶楽部で山田東次、石阪昌孝ら県選出の代議士をはじめ、岡部芳太郎、土方房五郎といった県議、さらに森久保作蔵ら二五〇余人が出席し、神奈川県自由党大会が開かれた。この大会では三郡を含む神奈川県域を網羅する自由党支部を横浜に設け、自由党武相支部としてこれまでどおり活動していくこと、総理大臣および内務大臣へ境域復旧の陳情書を提出することなどが決まった。十七日の県会では境域復旧法案の第五議会提出を内務大臣に建議することが満場一致で可決され、翌日には早くもこれが提出されたのである。続く二十二日、境域復旧についての調査委員を県会に設けることが可決され、三十一日には岡部委員から調査結果が報告されている。
五月一日、移管にともなう府会議員選挙が実施された。移管問題で破れた神奈川自由党は大量の壮士を投入し、北多摩郡の国民協会などとの間に激しい選挙戦を繰り広げた。結果は三郡の一四議席のうち一三議席を獲得した自由党の圧勝だった。これは移管反対運動に向けられた力を全て結集したことによる勝利だった。