前述のように南多摩郡の町村長らは二月二十二日の月次会で早くも運動方法を協議し、二十四日には三郡規模の請願書を提出し、翌日以降の町村長辞職により役場は閉鎖された。三月五日の青梅町大懇親会での決議事項は表1―4―10の通りだが、西多摩警察署の内偵によれば、役場閉鎖を継続し、管轄引継延期の請願を行うことも決められた(「明治廿六年申報録」東京都公文書館蔵)。同様に七日の三郡交渉会では「可成丈穏ニ運動スベシ」と、その方針が確認されている(「明治二十六年庶改要録」東京都公文書館蔵)。
町村長らの結集の一方、県下町村では町村会議員や自由党員を中心に運動が進められていた。多摩村の村議で党員の伊野銀蔵(図1―4―6)の元に、法案が可決すれば「地方税二倍以上」「戸数割ハ四倍以上」となって三郡は「大困難」をきたすので、「地方当面者騒候」よう運動してほしいとの依頼があった(資三―203)。これが多摩三郡自由党の指導者森久保からのものであることから、この運動での地元党員の役割がわかる訳だが、それは地域住民を煽って移管反対の気運を高めていこうとするものだった。しかも「右者役場ヨリ御聞取之事ト承知」とあるように、村の機構は、そのまま反対運動の組織に転化していたのである。伊野はこれを受け「郡内ノ調印」とりまとめに動いた(資三―204)。
図1―4―6 伊野銀蔵(36歳)
また法案通過後、反対派の拠点として三多摩郡境域復旧期成同盟会が組織された。芝区西久保桜川町に事務所を置いた同盟会は「復旧ヲ逐クルヲ以テ目的及期限」とするもので、境域復旧を望む三郡の町村から成り、運営費もこれら町村から出費された。運動は議会開会中に帝国議会と府会に対して行うこととし、実際これに当たるのが主に町村長から選ばれた各郡二人の委員だった。多摩村では富沢村長と小川収入役の推薦により、「重要ナル事件ヲ評議決定」する各町村一人の常議員、そして地方通信員に伊野銀蔵が選ばれている。同盟会は第五議会および第六議会にあわせて会合を開き、請願書の調製によって運動を続けていったのである(資三―209~211)。
以上のように県議、町村長、町村会議員といったそれぞれの運動主体が、神奈川自由党の枠の中で相互に関係を持ち、反対運動、復旧運動を進めていたのである。その運動は石阪や森久保ら神奈川自由党の指導者達に統制され、県下党勢力を動員して行われた合法的、穏健的なものだった。