さて、長期間に及ぶ役場の閉鎖で住民は「余程困難を感じ」出していた(『読売新聞』三月十五日付)。また打開策のない状態は運動の指導者らの意見の相違を浮彫りにし、最も強硬な西多摩村においてすら「硬軟激温相分」れたという(『うき草の花』羽村市教育委員会)。三月中旬には津久井郡で役場が再開され、四月五日の三郡交渉会には「三郡の重なるもの八十名」が出席し、役場再開の方針が決まった(『郵便報知新聞』四月十一日付)。しかし盛んだった境域復旧運動が急激に下降線をたどるのは、この翌日に起きた知事襲撃事件以降だった。事件をきっかけに反対派は穏健派と急進派が完全に分裂し、住民の支持も失ってしまった。事件について「多摩郡民の大部分は大に其の非行を責め」たという(『朝野新聞』四月十三日付)。五日市町長馬場勘左衛門らは「西多摩全郡ノ体面ヲ汚ス」急進的行動に激怒し、事態収拾の目処は立たなかった。そこで石阪は自由党本部に働きかけて民情鎮定の演説会を準備した。さらに自由党本部は第五議会への境域復旧法案提出が党の政務調査局で決まったことを伝え、三郡住民に「軽忽ノ非挙」を強く戒めたのである(『通覧』)。
第五議会の開会を控えた十月以降、同議会への復旧法案提出を目指して、前述の同盟会など神奈川自由党勢力の活動が再び活発化する。十一月二十八日の県会では境域復旧建議を内務大臣および県知事に行うことが可決された。しかし復旧運動は以前の統制を失い、最大の武器だった「住民の意向」も既に以前のものではなかったのである。当時の新聞は次のように伝えている。
「……八王子のごときは専はら商業地にして政治党派に関係せさる商人は又々神奈川県の管轄に復して万端不便を感ずるは迷惑なりとて頗る心配し居ると云ふ」(『毎日新聞』十月二十二日付)
明治二十七年三月二十日、自由党武相支部大会で境域復旧案の提出が可決され、十一月九日の県会では、第六議会への境域復旧法案提出を求める建議案が可決された。これは中野建明神奈川県知事を経て内務大臣へ提出されたが、三郡復旧をめぐる動きは、これをもって幕を閉じたのである。