激しさ極まりなかった反対運動、復旧運動が鎮静化に向かうには、反対派内部の問題、反対理由の解消、政治的要因の三つの理由が考えられる。
まず反対派内部の問題について見ると、前述のように反対派内には穏健派と急進派が存在していた。運動の主力である県議、町村長らを中心とした穏健派の統制から外れた急進的行動の続発により、反対派は完全に分裂し、統制の利かなくなった運動は当然弱体化した。また、長期の役場閉鎖により「民心も行政機関の運行を止めて日々の差支を生するの不便には到底抗」することができず(『郵便報知新聞』四月十六日付)、一般住民の熱は運動が長びく程に冷めていった。反対派の人々が、このような方法での問題解決の不可能を悟ったことは想像に難くない。
次は反対理由の解消である。反対派が最も主張したのは、租税負担の増加と、府県間の習慣や民情の違いであり、住民が運動から離れていったのは、この二点が克服されたことが大きい。二十六年度については三郡の予算を前年度の金額を標準とすることが府会で決まったことで、住民の租税負担増加の心配はひとまず解消されたのである。習慣、民情の違いも問題とはならなかった。例えば学校教育について、教科書や学区割は従来のままとされたし、移管から三年後、明治二十九年の都制案による東京府からの郡部分離法案に三郡住民はことごとく反対したのである。富田知事は三郡巡視後、住民の運動は「歴史的感情」によるものであり、これは「地方の市町村に於ては到底免れ難き」ものであると語っている(『国民新聞』四月十二日付)。理論よりも感情に訴えていた町村長らの請願書を見ても、運動のこのような面を否定することはできない。理論的裏づけが得られる以前には、政党の党利と住民の感情の結合こそが、運動に大きな盛り上がりを与えたのである。民意は間違いなく反対運動の重要な拠り所であった。
最後は政治的要因である。神奈川自由党の弱体化を防ぐため、県と三郡は従来の神奈川県域で組織された武相支部として行動を共にすることとした。明治二十六年五月一日の府会議員選挙では、前回一議席も取れなかった北多摩で自由党は五議席中四議席を獲得し、反自由党では吉野泰三だけが当選した。西多摩の四議席と南多摩の五議席は自由党が独占した。七月二日の高座郡の県議選挙では前回二議席のところ四議席全てを獲得した。国政選挙でも東京第一二区となった三郡から石阪昌孝と中村克昌が当選し、自由党に東京府の議席をもたらした。つまり勢力弱体化を恐れて行った運動の敗北が、皮肉にも党の勢力増強をもたらしたのである。以上のような要因によって移管は急速に是認されていったと言ってよいだろう。
一方自由党中央の動向は前節で見た同党の変質から考えることができる。統制を越えた過激な運動は、院内政党化しつつある自由党に未だ旧弊が残ることを強く党幹部に意識させた。積極主義を標榜する党幹部の目は民衆的、地方的な問題を離れ、政府との衝突を避けるべく、批判の矛先は改進党や国民協会へ向けられたのである。自由党は西多摩鎮撫のために約束した境域復旧法案の提出すら、遂に一度も行わなかった。移管問題には、急進的壮士の圧力、地方的問題から脱し得ない議員の姿、そしてこれを党弊とする幹部の姿、自由党の地方と中央の鮮明なギャップを見ることができるのである。