日清戦争の勃発

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明治二十七年(一八九四)八月一日、当日の新聞は御前会議、臨時閣議のほか、朝鮮特報、釜山通信を掲げ、日清間の風雲急たる状況を伝えている(毎日新聞)。国民新聞もまた二日に「交戦の通知」と題し、日清双方の公使の本国召喚を告げ、「公々然交戦国と相成りたり」と伝えている。宣戦布告の詔勅はいずれも三日付で掲載され、正式に交戦状況にはいったことを伝えた。すでに諸新聞はこうして戦争に向けての報道をくりかえし、多摩地域の人々は勿論、国民全体に覚悟を迫っていた。
 この年六月、第六議会の解散時、甲午農民戦争(東学党の乱)鎮圧のため、朝鮮政府が清国に援兵を求めたとの電報が到着した。そこで内閣は公使館および居留民保護の名目で、一個師団の出兵を決定した。
 同月九日、清国軍は牙山に上陸したが、農民軍と朝鮮政府との間に和議が成立したので動かず、これに対し、日本軍は清国軍との衝突を覚悟のうえ、内政改革を口実に閔氏政権を追放した。七月二十五日には豊島沖で清国軍を攻撃し、八月一日に清国に対し宣戦を布告したのである。
 日清戦争の勃発は多摩村にどのような影響を与えたかを「富沢日記」により、ときの村長富沢政賢の行動を中心にみてみよう。日記上に戦争が直接に表れるのは八月一日ではない。八月三十日の「予備後備兵」の召集のため役場出勤の記事が最初である。この夜から翌日にかけ兵士出発の準備を行い、九月四日に「兵卒出発、各村ヨリ送ル」とある。当時の現役兵の動向は明らかでない。
 村長としての彼が、次いでかかわったのは、九月二十六日の近衛兵後備役の徴兵である。翌日には軍馬徴発事務が行われ、二十九日に多摩村を出発、府中駅に見送っている。
 右のごとく多摩村では八月三十日と、九月二十六日の二度にわたる召集であったことがわかる。残されている召集令状によりこの点をみれば、表1―5―1のようになる。二度で合わせて一〇人であった。最初は八月三日午後五時十分に令状が届いた山田光太郎である。彼は昨年以来、「馬耳羅国」(マニラ、現フィリピン)へ商売上の仕事で出張中で出兵できず、そのためのちに裁判沙汰になっている。三十日には広田広吉以下六人の出征であり、九月二十六日には峰岸桃次郎、横倉銀治の二人であった。
表1―5―1 日清戦争時の召集令状
日時 受取時間 兵種 階級 氏名
明治27.8.3 午後5時10分 予備役 騎兵1等卒 山田光太郎
明治27.8.30 午後3時40分 後備役 歩兵1等卒 広田広吉
4時00分 浜田浦吉
4時10分 伊野伝治
4時10分 看護卒 林意三郎
4時50分 歩兵上等兵 横倉喜三郎
5時00分 騎兵上等兵 加藤英文
5時00分 予備役 歩兵1等卒 須藤利助
明治27.9.23 4時10分 近衛予備役 歩兵1等卒 峰岸桃次郎
明治27.9.25 4時00分 歩兵1等卒 横倉銀治
「召集令状受領書」(富沢政宏家文書)より作成。

 なお、多摩村の徴兵令違反者は二人おり、二十八年中は犯罪をおかし徴集猶予となった者二人、失踪者一人、極貧のため徴兵猶予者が一人いた。三多摩郡全体で徴兵検査をうけるべき者八〇八人、そのうち甲種合格一二四人、乙種合格一七八人、徴集免除四六〇人、身体故障四六人となっており、逃亡者も五五人に達していた。
 「富沢日記」によれば、徴兵家族への手当金配布が十月八日に行われ、十一月三十日には戦勝祝賀準備歌会に百草園に出張、十二月二日に戦勝祝賀大運動会に出席した。翌年三月七日には高西寺で日清戦争法会が行われ、五月十一日に「出張兵士葬典」に出席した。葬典は落合で行われており、戦病死した横倉喜三郎、横倉銀治の葬儀であった。
 右の日記掲載の記事は、戦時下の多摩村の出来事のすべてではない。戦争後援体制の活躍などは日記に表れていないからである。