政府は明治二十年頃より全国に徴兵者の後援組織として、各県に徴兵慰労会の組織化を働きかけている。各県では郡単位に組織するようにつとめ、埼玉県では各郡に徴兵慰労義会が設置されている。神奈川県では二十年九月、各郡で「徴兵報労会」(徴兵報労義会)の設置を命じている。
この郡単位の報労会は、日清戦争を契機に各町村の後援組織の設置に変化する。多摩村では二十七年九月に「報国恤兵会」が成立する。会長は村長富沢政賢、副会長は真藤龍蔵であった。南村では八月に恤兵会、稲城村では恤兵義会を組織しており、南多摩郡各村は報労会といわず恤兵会の名で統一したのであろう。
多摩村恤兵会は村長が会長をつとめているように、政府から義務づけられた行政上の後援組織であり、「報国恤兵会議事細則」(資三―212)によれば町村会議則に模した議則を作り、このもとで会長、副会長、会計員および調査委員と称する出征家族の救援担当者による会議が設定されている。この会議で出征兵士に対する慰労金の配分が協議されたが、その結果をもって会長富沢と会計員有山十七造が、出征家庭をまわり配布した。
九月二十六日の決議によれば、多摩村出征兵士一五人にあわせて一〇四円五〇銭(資三―213)が配布されることになった。現役兵として石坂武一郎、市川千代吉、加藤作次郎、高田運太郎の四人、予備役徴兵として小林又治郎、伊野伝治、横倉銀治、峰岸桃次郎、小島仲次郎、須藤利助、横倉亀太郎ら七人、また後備兵に広田広吉、横倉喜三郎、加藤英文、浜田浦吉ら一五人であった。彼らへの配布金は村民から集められたものである。落合地区では八月二十二日頃に各字毎に、臨時召集軍人家族保護の義捐金として集金されている。義捐惣代には有山佐一郎が選出されていた。
この報国恤兵会は毎月開催されたらしく、十月集会では調査委員の補欠選挙、徴馬所有者への慰労金配分法が審議されたほか、秘密会では遠征兵員に対する戦勝祝賀会に関する協議会が開かれており、十二月二日、百草園で開かれる南多摩郡連合戦勝大運動会にむけ、旅順攻撃軍に本郡出征兵がいることを理由に、盛り上げをはかろうとしていた。この日の大運動会は十一時開催、三時閉会まで演説や征清軍歌の斉唱、生徒綱引などがあり盛会であった。
日清戦争は軍事行動が順調にすすみ、翌年二月には北洋艦隊の根拠地である威海衛を占領、この艦隊を降伏させ大勢を決した。三月には下関講和会議が開かれ、四月には講和条約に調印した。戦争終結にともない多摩村恤兵会に対し、「征清軍人出発餞儀及び戦病者への贈与金補助として金二五円が下附」(『多摩町誌』306頁)されている。戦時の困難にくらべわずかな金額であった。