出征兵士と軍事郵便

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当時の人々が、戦争をどのように見たかの一例を、貞作なる人物から杉田玄次宛の手紙にみておこう。九月九日付のものである。
 今回の動員令で実弟が召集されるかと心配したが、今のところ通知がないので安心しています。日清戦争は未曾有の一大事件ですが最初の京城における小戦闘に続き、仁川港豊島の戦いや牙山戦にも勝ち、連戦連勝で喜んでいます。進んで陸軍は東北を海軍は天津を落すことになれば、日本は東洋で唯一の、否、世界第一の文明強国になることは間違いないでしょう。聞くところによれば、本月十三日、大本営を広島に移し天皇は大元帥の資格で同地に出発するとのことですが、私たち国民は傍観せず、常々に業に励み恤兵金を多く献金すべきです。昨日来の新聞報道によれば、数万人の清国人が押し寄せるとのことですが、彼らは烏合の兵で訓練され規律あるわが軍にかなう筈はないでしょう。この際わが国民は従軍を出願し、日本固有の抜刀隊に入り勇気を見せつけたいところですが、勅令で禁じられたので止むを得ません。私どもの町では今般応召の兵隊は、予備、後備および充員あわせて三二人です。このうち七、八人が極貧なので遺族の生活のため一か月五円、その他の留守家族には四円を帰郷するまで支給することになりました。このような支給は各村でも行われています(杉田卓三家文書)。

と伝えている。身内の出兵を心配しながら、戦いの連勝に意気高揚の様子がうかがえ、地域の有力者たちに軍国日本の考えが浸透しはじめていることが明らかになろう。
 右の手紙の差出人の町では三二人の出兵であるが、「わが多摩村からは十数名が従軍」(『多摩町誌』306頁)した。この数は前述石坂武一郎以下の一五人に相当する。この一五人は九月二十六日の資料上の数値である。富沢村長はこの日出兵者見送りをしているので、この見送り人数が合算されているかどうかは明らかでない。
 現存する軍事郵便から出兵者の動向をみておこう。峰岸桃次郎と横倉銀治は十月一日相ついで村長宛に連絡し、近衛歩兵第一連隊補充大隊第二中隊に編入され、現在、東京飯田町平野マツ方に止宿していることを伝えている。峰岸は翌年三月、再び村長および村役場宛に手紙をよこし、連戦連勝の先輩たちに感激していたが、いよいよわが軍も清国に向け出発の命令が昨日下り、二十四日に青山停車場から広島に向け出発する旨を伝えている。明治十年西南戦争で勇猛な西郷軍を降伏させた武勇の近衛兵の伝統は、近代的性格をつよめ、携帯する武器も世界一の村田銃(一〇連発)や一分間に六〇〇発を発射する機関砲である。兵士も選りすぐりの勇猛果敢な部隊なので必ず勝って凱旋すると伝えている。所属は近衛野戦師団歩兵第一連隊第四中隊第一小隊第四分隊となっていた。戦争末期の出征であり、果して清国まで行ったか否かは明らかではない。

図1―5―1 軍事郵便

 高田運太郎は第一師団司令部付監理部付で、十月十二日広島より横浜丸で戦地に赴くことを伝え、加藤作治郎は横須賀要塞砲兵第二大隊第六中隊に属し、多摩村内における恤兵会の遺族慰問に感謝の気持を伝えている。横倉亀太郎は青山陸軍予備病院第二分隊から、二十八年三月に手紙を村内によこしている。「我戦友ト供ニ己ノ本分ノ忠節を守候義ハ、山嶽よりも重ク、死ハ鴻毛よりモ軽しと覚悟」(富沢政宏家文書)して出発したが、広島まで行き病気となり東京に戻ったと伝えている。当時の軍人はすでに忠君愛国の思想が深く刻まれており、訓練自体も精神的且つ肉体的に負担であったことが読みとれる。
 なお、多摩村出身か否かわからないが、富沢家には清国盛東省青堆子患者宿泊処長の和田昌訓なる人物からの軍事郵便がある。病院勤務で一二〇〇人の患者救護にあたっているが、寒気強く積雪たえず、船の往来もなく、四、五里の陸路を病人を搬送し、大連より日本に送っている状態であること、満州地方の当地は馬糞を肥料にせず燃料にし、葬送供養に泣男が参加し、弁髪、纏足、耳輪、爆竹などの風習があることを伝えている。出征兵士のおかれた状況の厳しさがわかる。