軍夫「玉組」の結成

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日清開戦の直前のこと、明治二十七年(一八九四)七月、神奈川県青年会は自由党有志者大会を開き、「義勇兵」組織化を満場一致で決議した。かつて名高き三多摩壮士を中心とする県下自由党あげての義勇兵運動の開始を告げたものであった。
 これは八月七日、その必要なしとする詔勅で運動は一旦中止されるが、それでも壮士たちは不満であった。
 政府は正規徴兵の確保を優先し、徴兵予定者の義勇兵への事前参加を恐れており、十月二十九日付で多摩村長名で各大字の責任者に、次のような通達を出し注意を喚起している。「予備徴員は戦役に使用する人夫等に傭われることがあってはならないが、特別の禁令がないので人夫の召集に応じて渡航する者があるかもしれない。そうなれば兵員補充のため徴集ができないので、そのような弊害が生まれぬよう方策をたてる必要がある、とのその筋から通達があったので注意されたい」(杉田卓三家文書)というのである。あわせて同日付でこの予備徴員は要塞砲兵第一連隊補充隊に編成するかもしれない旨を、一緒に通知している。それだけ軍夫募集の風潮が広まり、正規兵確保に危機感を募らせた結果であったように思われる。
 同年十一月、自由党の先達、森久保作蔵(南多摩郡選出、東京府会議員)が軍夫「玉組」の組織化に着手すると、三多摩を中心に全国から四三二人の軍夫希望者が集まり、陸軍後備歩兵第一連隊に所属し、武器・物資輸送の業務担当にあたることを許可されている。多摩村からは関戸の萩生田幸太郎(三六才)が参加したが、八王子、日野市域の村々を中心に三多摩では全体の三七パーセンにあたる一六〇人が参加している。
 この「玉組」が属する第一連隊は、明治二十八年二月七日東京新橋駅を出発し、台湾西方の澎湖島占領作戦に参加するため、三月十五日に佐世保港を出港した。同島での作戦がどのようなものであったか明らかでないが、同月二十六日にこれを占領した。連隊上陸は二十三日であり四日間の戦闘であったともいう。この戦での敵は清国ばかりでなく赤痢やコレラの病気でもあった。
 四月十五日付の森久保作蔵の手紙によれば、その実情は大変みじめなものである。「澎湖島の戦いに参加した総数五六三三人のうち死亡者は千有余人、赤痢・コレラにかかりしもの実に二千余人、飲水の変化のためこの異郷に倒れしもの数うるに暇まなく、殆んど全数といってよい。この惨状は連戦連勝にわく故郷の人々の想像を絶するものである」(佐藤孝太郎『八王子物語下』)と伝えている。続けて玉組の死亡者を南多摩郡一二人、北多摩郡四人、西多摩郡三人、愛甲郡出身者二人などのほか全体で七〇人余に達し、病後衰弱のため帰国を命ぜられたもの二八人と伝えている。その後を含め、玉組の犠牲者は結局一〇一人に達した。出征軍夫の実に四分の一に相当する。関戸の萩生田幸太郎はさいわい無事であった。この事件は民権を標榜し立ち上った三多摩壮士が、日清戦争を契機として国権に従属する画期となったものといえよう。
 なお、南多摩郡の明治期における戦病死者数をみれば表1―5―2のようになる。西南戦争時四人、日清戦争時は兵士三四人、軍夫四一人である。軍夫には玉組の戦病死者以外も含まれている。双方あわせ七五人の犠牲者であった。日露戦争時の二一四人よりは少ないものの、一郡規模としては多くの犠牲であったといえよう。
表1―5―2 明治期南多摩郡各町村の戦病死者数
町村名 明治10年 明治27・28年役日清戦 明治38年役日露戦 明治37・8年入寄留者 合計
西南戦 兵士 軍夫
八王子町 6 10 31 4 51
横山村 2 2 8 12
浅川村 1 3 5 9
元八王子村 1 1 9 11
恩方村 1 9 1 11
川口村 3 4 8 15
加住村 15 15
小宮村 1 3 10 14
日野町 2 4 8 1 15
七生村 2 2 1 6 11
由木村 1 1 7 9
多摩村 2 12 14
稲城村 1 3 15 19
鶴川村 1 6 4 13 24
南村 1 1 11 13
町田村 3 5 8
忠生村 2 18 20
堺村 1 9 10
由井村 2 1 9 12
合計 4 34 41 208 6 293
明治40年「南多摩郡会枢要書類」(富沢政宏家文書)より作成。