村政の推移

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日清戦争から日露戦争にいたる約十年間の、多摩村政は次のような人々によって担当されている。
 
村長  富沢政賢  明治二十二年六月以来
助役  真藤龍蔵  同     同
    小川平吉  同 二十七年七月交代
    佐伯太兵衛 同 三十五年四月交代
収入役 小川平吉  同 二十二年七月以来
    横倉勇造  同 三十六年十一月交代

 日清戦争勃発当時の村会議員は臼井庄蔵(百草)、相沢兵蔵(関戸)、伊野権之助(貝取)、富沢芳次郎(連光寺)、有山十七造(乞田)、寺沢弥十郎(落合)、真藤龍蔵(和田)、山田惣助(一ノ宮)、伊野銀蔵(東寺方)、杉田吉兵衛(東寺方)、富沢政賢(連光寺)、小金寿之助(連光寺)の一二人であった。その後、村会議員の半数改選は日露戦争までに二十八年四月、三十一年三月、三十四年四月の三回実施され、小磯栄三郎(乞田)、横倉作次郎(落合)、小泉良助(落合)、小川平吉(関戸)、高野鎌太郎(連光寺)、浜田喜一郎(貝取)、有山覚之助(乞田)らが交代する。この間、三十一年六月に補欠選挙も行われている。
 村長は富沢政賢が町村制実施以来、明治二十六年、三十年、三十四年の改選に再選されずっと継続していた。村会議員は定員一二人が、基本的に各集落に配慮されて選出された。多摩村会は二十七年は通常村会二回、臨時村会二回、あわせて四回開かれている。だが戦争開始にともなう特別村会は開かれていない。二十八年以来、村会は三、四回、三十八年に八回、続いて三十九年が一二回となり極端に多くなる。
 村会議員の村会への出席状況をみれば、町村制実施直後の明治二十年代は良好である。だが三十年代から日露戦後まで徐々に悪くなる。当初、定員一二人中一、二人の欠席が、三十年代に四、五人となり、三十二年五月に有山十七造が死亡して以来、二人の欠員が出るが補充されていない。そのうえ欠席者も多く、会議は六、七人の出席で行われる場合がほとんどとなる。村会が活発であったとはいい難い。
 村会審議の状況を、議案でみれば表1―5―3のようになる。
表1―5―3 村会の審議状況(明治27~32年)
議案等
明治27年 2月 助役補欠選挙
助役真藤龍蔵就職中功績表彰
6月 地方税戸数割多摩村負担額賦課法
多摩村歳入出予算議案
8月 収入役事務兼掌その他議案
明治28年 4月 前年度臨時案議決
多摩村歳入出予算議案
村会議員半数改選効力について
明治29年 2月 助役に国行政を分掌する件
4月 農会設置の件 多摩村農会規則
5月 前年度歳入出追加予算議案
地方税戸数割賦課法案、商工業税・雑種税中飲食店税分賦課額議案
明治30年 5月 伝染病予防委員(30人)選任
多摩村歳入出予算議案
8月 伝染病予防委員選挙
10月 伝染病隔離病舎建築
11月 不明
明治31年 6月 伝染病感染及び死亡者手当金支給規程、小学校授業料額改定の件
向岡尋常小学校敷地増加の件
各大字消防用器具整備、消防組組織の件
明治32年 5月 向岡尋常小学校増築議案
多摩村歳入出予算議案、地方税戸数割賦課徴収法案、伝染病予防設備の件
7月 多摩村歳入出決算報告
9月 授業料変更、学級変更の件、助役小川平吉辞職承認の件
10月 収入役設置及び俸給額決定の件、収入役給料流用支出の件
村会議事録より作成。