消防組と伝染病予防

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火災に対する消火作業は江戸時代から農村生活の重要事であった。これが明治期に組織化される。明治十九年以降、組織化はすすむが、とくに二十七年二月に「消防組規則」(勅令第一五号)が公布され、各町村に消防組設置が義務づけられた。
 町村内の大字または区を設置区域とし、組頭、小頭、消防手で構成され、警察の監督をうけた。火の見櫓、半鐘を設備し信号を定めており、多摩村は二月村会で設置を決議した。しかし、現実には三十一年六月村会で各大字の消防組組織化と消防器具その他設備の準備を決めている(『多摩町誌』355頁)ので、組織化は遅れたらしい。三十四年二月認可の連光寺消防組は組頭一人、小頭四人、消防手四〇人となっており、器具は喞筒(ポンプ)、纏、竹はしご、鳶口一五、旗二、鈴、玄蕃桶七、高張提灯、火の見櫓、器具置場が設備されていた。
 その後、明治四十三年に和田と東寺方に消防組が公認され、同年十月村会では多摩村消防組として統一された。
 伝染病予防は明治十年以後の大きな問題であった。飲料水検査、清潔法の実施(資三―260、265)、衛生組合設置は二十年前後から準備される。日清戦争や日露戦争はとくに海外からの伝染病流入が問題となり、伝染病患者の隔離化が要請された。明治三十年四月、伝染病予防法の公布をうけ、多摩村では同年十月村会で決議される(『多摩町誌』355頁)。隔離病舎は三棟で三八坪余、五九四円の予算であった。予防体制と隔離病舎との関係は三十一年七月の村会で決議されている(資三―263)。三十二年度事務報告によれば、多摩村有財産表(資三―227)のなかに隔離病舎は平屋で三二坪、付属事務室が平屋八坪、消毒所、汚物置場などが五坪あまりで、合計四五坪、価格として一二九一円となっている。
 この伝染病対策は日露戦争時の方が深刻で、明治三十八年八月予防費一四五〇円を借入れ、総額一五一〇円余の衛生費を村会決議しており、この捻出法は多くは戸別割によった。これらは村財政の膨張と滞納の原因となっている。