日清戦争から日露戦争にかけての約十年間、多摩村政は次のように評価されている。町村制実施以来、この時期にかけて各町村政の統一をはかるため、県官または郡吏が巡回指導し、その結果が復命されている。各町村の事務および村内状況の評定であった。
明治二十七年(一八九四)七月、東京府属田辺耿介の南多摩郡各村の巡視が行われている。巡視項目は「町村内全体ノ状況」、「町村役場事務ノ分課内執務ノ状況」(『日野市史史料集 続地誌編』158頁以下)など一一項目にわたっている。町村内全体の状況は政治的に自由党で一致する各町村もそれは名望家、知識人のみで、多くの町村民は実業に専念し、政治に興味を示していない。本年の町村会議員改選の棄権者は有権者の半数以上となった場合もあり、かえって円満である。役場事務は土地、戸籍、課税事務が中心で、教育、衛生、議事の事務量がこれにつぐ。学務、衛生、土木、農商務省統計材料調査の各委員がおかれ、町村吏員(郡下平均五人)の仕事を手伝っている。町村吏員の能否は、多摩村の場合は可もなく不可もなかったらしい。町村会議員選挙は、各村とも政治上の主義が同じため競争はなく、きわめて平穏で、町村会は毎年三、四回でこれが普通であるが、出席議員が少なく、忠生村の如く出席一人で開会という違反の場合もある。議事は儀式的で質問、議論はほとんどない。傍聴人も皆無である。
町村事務の簿冊は各町村とも整理されていない。保存状況も悪い。役場吏員と町村民との関係は悪くないが、貧困者が納税できないときは村長が代納して、帳簿上は整理したことになっている。「町村長ノ職、実ニ容易ナラス」(同 一七二頁)という。報告によれば多摩村は南多摩郡内の平均的な村であった。
明治三十五年(一九〇二)十二月、南多摩郡長仙石卯策は巡視報告を府知事宛に提出した(明治三十五年「南多摩郡町村巡視之状況報告書」東京都公文書館)。これによると、町村内全体の状況は選挙で大字間の対立があるものは少ないが、川口村、八王子町、由木村、加住村、堺村は教育問題で対立が起こっている。公共心に富めるものは由木村の道路改修、鶴川村の生糸揚枠所の設置、忠生村の購買販売組合の組織化のみである。町村吏員の能否をみれば、町村制実施以来引続き村長をつとめる多摩村、恩方村のほかは明治三十年以降の就職で、事務経験に浅い。上位に属する村は多摩、恩方のほかは町田、加住、七生、日野町長のみである。役場書記はとくに不都合はない。町村吏員の給料は今年増給となったが、多摩村長は月給五〇円、助役四〇円、収入役一〇円、書記三人で七円であった。他町村に比較し低い。
明治三十四年四月の町村会議員選挙は円満で、大字間の争いはなかった。多摩村は一級選挙人八一人、うち投票者は二四人、一六票から二二票で当選し、二級選挙人は三七六人、そのうち投票者は六二人で三三票から四四票で当選した。投票率は一級で三〇パーセント、二級で一六パーセントと低い。各町村とも全般的に低いが、稲城村、多摩村は特に低い。町村会は教育問題で紛糾する村もあったが、直接に議事が妨害されたことはない。議事は定刻に始まることは少なく、浅川村、稲城村、堺村、由井村、八王子町の場合、定員が満たないため何回も召集されることがあった。多摩村は選挙に問題があったが、特別な欠点は指摘されていない。平均的な村であった。