新自由党と政友会

266 ~ 267
右の巡視報告において南多摩郡の全町村は自由党のため、政治上の主義をめぐり、政争が少なかったと指摘されている。多摩村も同様であった。その自由党は日清戦争を契機に、壮士層が軍夫組織の玉組を組織し、海外進出し軍国主義に加担していくように変質しつつあった。
 南多摩郡自由党は三多摩東京府編入闘争を経て変わる。自由党は対立をやめ政府に接近する。郡会―府会―衆議院も圧倒的に自由党員を選出するが、すでにその性格は異なる。改進党系の進歩党が対外硬を主張し、政府に対立したのと反対に、明治二十九年四月には総理板垣退助が内務大臣として入閣し、石阪昌孝(鶴川村)は群馬県知事に起用される。しかし松方正義内閣が成立し進歩党と提携(明治二十九年九月)すると、これにつよく反対したものの、森久保作蔵を中心とする三多摩自由党の人々は、土佐派が中心となり長州派の伊藤博文と結ぶのを好まず、脱党し新自由党を組織するに至った。つまり松方内閣とも良好な関係を保ち、戦後経営の官民協力を主張したのである。これに連なる多摩村の自由党員伊野銀蔵も脱党(資三―220)し、新自由党に加わる。多摩村の関係者はほぼ全員この動きに賛同したと思われる。

図1―5―4 自由党の林副重より伊野銀蔵宛の書簡
銀蔵の新自由党結党への関与を問い合わせている。

 新自由党は明治三十年二月二十八日に結党する。南多摩郡選出代議士中村克昌、村野常右衛門、森久保作蔵らを中心とするこの新自由党は、全脱党代議士が一〇人にすぎず、議会の少数派であったが、結党式には三多摩より二二〇〇人余(『朝日新聞』同年三月二日付)が上京したという。新自由党総理は石阪昌孝が就任した。
 この新自由党は活動状況は明らかでない。だが明治三十一年六月の自由党、進歩党の合同時に復帰し、その役割も終わる(資三―223)。これにともない翌七月に新党の憲政党の三多摩支部が発足する(資三―224)。この憲政党内閣が最初の政党内閣である隈板内閣である。これも四か月後に分裂し、自由党系の憲政党と改進党(進歩党)系の憲政本党にわかれる。
 自由党系の憲政党は山県有朋内閣と提携し、地租増徴(地租率は一〇〇分二・五から一〇〇分三・三へ)に賛成し、それまで地租軽減を旗じるしにし民党の先頭に立ち闘った性格を変質し、地租増徴にともなう軍国主義へ転ずる。この動きは明治三十三年(一九〇〇)結成の政友会に吸収され、藩閥の首領伊藤博文総裁のもとに編入される。かつて激しく対抗した伊藤の軍門に下り、民党の性格を吏党にかえる。南多摩郡の郡会、府会選挙は相変わらず自由党・憲政党・政友会系の議員を選出したが、議員の変質を支えた町村の変化が背景にあった。地租軽減の必要をなくした農村は、地主制の確立と無関係ではなかった。