多摩村のこの時期の総耕地四九〇町歩、このうち水田一七八町歩、畑地三一一町歩である。つまり多摩村は水田三六パーセントに対し、畑六四パーセントの畑勝ち村である。これは南多摩郡全域の水田の二五パーセント、畑七五パーセントと比較すれば、多摩村は郡のなかではやや水田の比率が高い。小作地率をみれば、多摩村の水田小作地率は六三パーセント、同じく畑地は六四パーセントである。これを郡全体の数値、水田小作率五七パーセント、畑小作率五一パーセントと比較すれば、多摩村のそれは田畑とも高い。
このように地主的土地所有の発展した多摩村の、一戸当り平均耕地は七反四畝歩余で、郡平均の九反五畝歩より少ない。多摩村の専業農家は五一五戸、兼業二六七戸(うち二二二戸は養蚕との兼業)であり、工業専業六三戸、商業専業三九戸、交通運輸業四戸、官公吏二七戸、不明一二戸であった。時代的影響から商工業を展開しているが、ほとんど農家で、郡全体の比率より農家率は高い。これらのことからいまだ純農村的性格をもつ多摩村は、畑勝ち村ながら水田も多く、地主制が発達し、耕地面積の少なさから一層集約性を高め、生産力の上昇を図らねばならないという性格が明らかになる。
明治後期の多摩村農業は、郡全体と同じように普通農作物の改良を主に、蔬菜および果実作がのび、これに桑園改良による養蚕業が展開していた。植林や畜産業、副業(竹細工、藁細工、賃製糸、賃織物、製茶)などもあるが、圧倒的に米麦の主穀作を中心に養蚕を兼ねる農家が多かった。
農業生産力の基本にかかわる土壌は、東寺方と関戸の一部が「埴土」(『南多摩郡農会史』第二編農業状態16頁)のほか、貝取、落合、乞田、一ノ宮、和田は「壌土」である。埴土は粘土質で水はけが悪く、肥料の分解力が悪く、生産力が低い。壌土は砂土と埴土が適当に混合した土で、耕作は容易でいずれの作物にも適し、肥料の吸収もよく一応生産力を保証する土地である。この土地に生産される主要作物の反当り生産量をみれば表1―5―5のようになる。
作物 | 多摩村 | 南多摩郡 |
石 斗 | 石 斗 升 | |
粳米 | 1.4 0 | 1.6 2 |
糯米 | 1.2 0 | 1.4 6 |
陸米 | 1.0 0 | 1.2 7 |
大麦 | 1.8 0 | 1.6 7 |
小麦 | 1.2 0 | 1.1 6 |
蕎麦 | 1.0 0 | 0.7 5 |
大豆 | 0.4 0 | 0.6 2 5 |
小豆 | 0.3 8 | 0.5 8 |
甘藷 | 300貫 | 272貫 |
里芋 | 260貫 | 248貫 |
馬鈴薯 | 200貫 | 244貫 |
大根 | 680貫 | 704貫 |
茄子 | 450貫 | 351貫 |
大正3年『東京府南多摩郡農会史』より作成。 |
粳米、糯米は郡平均より低く、畑は大小麦、養蚕、甘藷、里芋、茄子などは郡平均より高い。相対的に畑生産力が高かったようである。
当時における多摩村の農業収入比をみれば図1―5―5のようになる。総収入二四〇万円のうち四〇パーセントに相当する九七万円余は米穀収入である。ついで余業収入が二三パーセント、養蚕収入が一五パーセント、蔬菜収入九パーセントの順となる。山林収入、果実収入は少ない。この収入比からみても、多摩村は主穀作中心の養蚕、その加工、蔬菜を組み合わせた村という性格が明らかになる。茶畑はほとんどない。
図1―5―5 明治44年度多摩村農産収入比
大正3年『東京府南多摩郡農会史』より作成。
注)穀菽(こくしゅく)は穀物と大豆のこと。
これら生産物の移出入をみれば、生糸は横浜または八王子に移出し、米大小麦は八王子に、木炭、薪、氷は府中町に、また柿、栗、鮎、練糸、目籠は東京に移出している。明治三十年当時(表1―5―4)よりは移出先が特定されてきているように思われる。移入品をみれば肥料、酒、醤油、砂糖、塩、石油、鮭、陶器、雑貨が東京から、生糸は八王子から、木綿織物は府中から移入されている。物資流通は当時の交通手段とかかわり、東京市場圏に編成されていた。