麦作試験場と農事講習会

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多摩村農会の事業をみると、日清戦争から日露戦争にかけての約十年間は、麦作試作実験と農事講習会のみで、日露戦後の活発な事業展開に比較し、事業の積極性に乏しい。この点は他町村の農会の動向をみても同じである。その意味で、日清戦後期は農会事業の始動期であった。
 多摩村に残存する農会関係資料はほとんどない。若干の残された資料から当時の様子をみれば、三十三年十一月に南多摩郡農会への多摩村分担金七円二五銭および総会費二円の支出、同年三月、大日本農会費として一五円余が提出されている。この農会費は小金寿之助、石坂戸一郎、有山覚之助、沼績、相沢兵蔵、浜田喜一郎、伊野伝治、横倉作治郎、小形忠蔵、伊野富佐次、富沢政賢の一一人分である。宛先は小林祐之つまり南多摩郡農会幹部である。上部組織への分担金であるが、出金者一一人は多摩村農会員の全員か代表かは明らかでない。三十四年十一月には農事講習会費八円余も、連光寺新倉庄五郎が収入役に請求している。
 明治三十五年には多摩村試作人伊野富佐次より稲作肥料代補助金、共進会審査出勤手当が請求され、三十六年には籾種塩水選の塩代が一ノ宮の山田芳太郎から請求されている。この時期はやはり試作実験段階であった。この多摩村の米麦試作地法は三十六年に廃止され、八王子に設置された郡農事試験所に集中される。しかし伊野家は試作を四十二年まで続けている。
 伊野家の「農事概誌」(伊野弘世家文書)によれば、三十四年度の試作状況が害虫被害のため思わしくないことを記している。十一月六日、一反歩に四升四合の割合で塩水選したものを播種し、施肥は堆肥と屎尿を混ぜて大豆粕や過燐酸を用い、鍬で深耕し、十二月、三月、四月に中耕したが、「はりがね虫」の発生で失敗したという。そのため麦作試作場を水田に移している。
 明治二十年代から農事巡回教師により開かれていた農事講話会は、三十年代にはいると農事講習会にかわる。「農事講習会規則」(伊野弘世家文書)によれば、「農業上ノ学理ト応用トヲ授ケ」る集会であるという。講習期間は三週間で、これを三期にわけ郡内数か所に開く。一か所当り定員五〇人、講習生は一六歳以上の郡内居住の男子、一日五時間の講習科目は土壌論、肥料論、普通作物論、特用作物論、園芸論など一七科目にのぼった。明治三十二年第一回が開かれて以来、講習会の経費は府農会の負担であった。
 明治三十三年二月には郡役所で第三回が開かれ、第四回は三十四年九月になっている。この時出席した貝取の伊野平三の「農事講習会簿」(伊野英三家文書)によれば、肥料論は培養作物の養分吸収による地力涸枯に対応するための堆肥還元論が説かれている。多摩地域の土壌にみあった肥料分配論のような、きめ細かい指導であったか否かはわからない。
 農事講習生を各町村の農事改良の先頭に立たしめようとしたこの方法は、農業および園芸講習を主とし、蚕業講習がこれについだが、南多摩郡全体の講習生の推移は、明治三十二年度の四九人を最初に、三十三年度は一八人、三十四年度三六人、三十五年度八五人、三十六年度二〇七人と順次増加する。大正元年度までの講習生総数は一八一九人に達する。稲作改良の塩水選、短冊苗代、正条植、麦作改良法などを実施する農家も、明治三十六年度を境に急増する。たとえサーベル農政といわれ官憲による強制的な改良政策であったとはいえ、日露戦争を境に農事改良による生産力上昇がみられるのである。