共進会と品評会

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先にみたように、多摩村での品評会が開かれるのは明治四十年である。郡下各村のバランスをとって開設されたのでこの時期になったと思われるが、それにしても遅い。南多摩郡では明治三十四年七月に「物産品評会規則」をきめ、同年十一月にその第一回を開いているが、これとて遅いように思われる。
 神奈川県では明治二十年三月に連合繭糸織物共進会規則を制定している。八王子で一府八県連合共進会が開かれるのも二十年十月である。博覧会は国家レベル、共進会は府県レベル、品評会は町村レベルのもので、各々、生産品や技術を一堂に集めて、その交流・発達をはかるためのものであった。二十年前後の共進会開設をうけて、二十年代には全国各地で品評会が開かれるのが一般的である。南多摩郡の農事改良のための事業は、二十年代は農工会主催の農事講習会開催が主であり、共進会、品評会はほとんど開かれていない。この種の動きの鈍さがなにによるものか明らかでない。
 多摩村における残存資料により、共進会、品評会への出品状況をみれば、すべて三十年代以降である。明治三十二年十月、八王子で開かれた一府九県連合共進会(資三―243)には郡内各村から多数出品されている。合計一七五八点である。しかし多摩村の出品点数が明らかではなく、追記の部分に出品予定数とし、繭五〇点、生糸一五点、麦三〇点、米一〇点、大豆五点と記されており、村長、助役が農業熱心者であるので、出品勧誘に努力していると報告されている。だがこの一例のみしかわからないが、他町村では出品がすでに確定している段階での多摩村での勧誘は、とりくみの遅れがあるように思えてならない。多摩村では村内部から盛り上った品評会や技術改良というよりは、官主導による上からの奨励に対応したという側面が強い。

図1―5―6 明治32年10月23日南多摩郡役所前記念写真
一府九県連合共進会関連と推定。前列中央が伊野富佐次。

 南多摩郡では各町村での品評会開催を奨励したが、最初は明治三十三年に鶴川村外四か村連合品評会と堺村の二か所で開かれる。三十五年には町田村、日野町、小宮村で開かれるが、一般化するのは四十年以降で、開催村数、出品点数も飛躍的に増大する。とはいえやはり明治三十年代が、多摩地域農業および蚕業の生産的画期であった。農業改良の離陸期であるとともに蚕業改良の転換期でもあった。たとえば蚕業に関しては明治二十七年三月、多摩村では製糸改良の相談会(資三―182)がもたれ、養蚕法は天然育法から温暖育法に変わる。二十八年七月に稲城村坂浜に共同改良揚枠所が設置され、多摩村でも正確な年次がわからないが、漸進合資会社の第三四号揚枠所が設置される。三十三年当時小野路に第五揚枠所があるので、この直後の開設かもしれない。多摩村では四十年に漸進合資会社を離れ、鶴見川社(鶴川村)系の揚枠所にする協議がなされている。
 また明治三十三年八月の鶴川村外の四か村連合品評会に出品された小島守武の生糸解説書(小島資料館)によれば、明治三十二年までの座繰製糸にかわった三十三年第五揚枠所の「踏機械」製の生糸とされている。糸取り器械の改良による生産統一も進んでいたのである。
 明治四十年以降の品評会は稲麦作立毛品評会が多い。これに対して農産物一般、繭、蔬菜、堆肥などの品評会は少ない。つまり多摩村周辺の農事改良志向は、圧倒的に米と麦に集中しているのである。大正二年九月、多摩村農会主催第六回稲作立毛品評会の状況は(資三―249)、落合では伊勢錦、六部、田毎、陸尾張、二ノ宮、愛国、関取早生、高砂などの品種が出品されている。これらはいずれも一、二等に入賞する。愛国、関取は全国的な著名品種であるが、いまだ統一品種が生まれていない状況を示す。大正三年には第一回農産品評会が開かれ、落合では目籠、赤茎牛蒡、百合、大豆などが一、二等になっている。