この採氷組合は「精良ノ凍氷ヲ採収シ、濫悪ノ弊害ヲ矯正」(「神奈川県下採氷組合規約」富沢政宏家文書 国立史料館蔵)することを目的に、全県を一区とし、事務所を橘樹郡南綱島村においている。組長は飯田助太夫である。多摩村の凍氷採集営業者は同盟し、「玉水社」と称し、全県組合と気脈を通ずることになった。玉水社は営業上の名称を「玉川氷商会」ともいった。
当時の採氷状況につき概況報告書をみれば次のようになる。少々長文であるが資料をそのまま引用してみたい。
玉川氷ハ神奈川県橘樹、南多摩ノ二郡ヲ以テ玉川採氷組合ヲ組織シ、組長已下役員ヲ置キ、規約ヲ設ケ団躰営業スル茲ニ十五年間ナリ。就中ク橘樹郡向丘村長尾ヲ以テ第一トス。南多摩郡多摩村連光寺、稲城村大丸之レニ次ク。然レトモ純粋ノ多摩川氷ヲ以テ天然氷ヲ採収スルモノハ多摩村連光寺玉川氷商会ト、稲城村大丸玉氷商会是ナリ(中略)。
本月初旬、特務委員ヲ派出シ各氷室ノ実況取調ヲナセシニ、南多摩郡多摩村連光寺玉川氷商会ニ属スル氷池(神奈川県下第一等ノ位置ナリ)、僅々五百坪以内ニテ、氷室壱ヶ所アルノミナレトモ、当期ニ伐氷既ニ三回ニシテ結氷ノ厚サ曲尺弐寸八分ヨリ弐寸ニ止マリ採氷高参拾万斤余ニ至リ、他ニ比類ナキ好結果ナルヲ以テ、神奈川県採氷組合第一等氷ト認メタリ。
本月初旬、特務委員ヲ派出シ各氷室ノ実況取調ヲナセシニ、南多摩郡多摩村連光寺玉川氷商会ニ属スル氷池(神奈川県下第一等ノ位置ナリ)、僅々五百坪以内ニテ、氷室壱ヶ所アルノミナレトモ、当期ニ伐氷既ニ三回ニシテ結氷ノ厚サ曲尺弐寸八分ヨリ弐寸ニ止マリ採氷高参拾万斤余ニ至リ、他ニ比類ナキ好結果ナルヲ以テ、神奈川県採氷組合第一等氷ト認メタリ。
(「神奈川県採氷組合結氷ノ概況」富沢政宏家文書 国立史料館蔵)
この内容は五〇〇坪から三〇万斤の収量を得る連光寺の玉川氷商会の氷が、神奈川県第一位の良質を誇っている、というものである。採氷場の位置をみれば、明治二十年(一八八七)十月の製氷営業免許願に記された場所は、連光寺字向ノ岡第二四五三、二四五四、二四五五、二四五六番地の民有山林である。四つの地番であるが現実の土地は七筆であった。この周囲を厚板ではり砂礫をひいて多摩川の水を樋管で引き、水吐口が一か所あった。製氷毎に新鮮な水を用い、周囲は不潔でないことを報告している。氷室は一四五六番地に一か所設けられている。願人は小形清左衛門、高野弥五左衛門、製氷場地主富沢政賢と用水路関係地主小金忠五郎が連署している。これら四人が玉川社社員となっている。添付絵図からみれば製氷場は多摩川本流沿いである。
図1―5―7 製氷営業地域略図
図1―5―8 製氷池跡付近の現況
図1―5―9 東京氷水一覧鑑
この営業願に記された総面積は、七筆で三三七坪である。前記概況報告の五〇〇坪と異なるが、多摩村の十九年採氷営業坪数は四二〇坪(「官有地下川原、民有山林字大水上リ玉川々沿」の地所)であり、年度によりかわったものと思われる。前記五〇〇坪は、資料上に組合を設けて以来十五年とあるので明治三十三、四年頃と思われる。
玉川氷商会の営業は小形、高野の二人が中心で明治二十年度の採氷三〇万斤の一人当り益金は一七一円余であった。二十一年六月に営業権は小形清左衛門から小金寿之助に移り、以後、高野、小金が営業人となっている。当時の玉川社の凍氷代金は一貫目につき六銭で、東京販売所の生養氷商会が最大の取引き先であった。玉川氷商会の凍氷販売表によれば個人や商人にも売られており、明治末期には狭山氷販売店や八王子西洋料理店などにも売られ、明治期を通じ需要度は高かったようである。