水車業は江戸時代以来、各村で営まれ、村びとの生活に深くかかわってきたが、明治時代になると同業組合化がすすめられ、水車業も組織化される。東京府下で水車業規則を設けられたのは明治三十年(一八九七)十月である。すでに前提として明治十四年七月にも公布されており、多摩地域ではこれにもとづき東寺方村有山平蔵が営業届を出していた(資三―129)。その後、神奈川県での直接規則はなく、東京に移管されて最初の法令であった。この水車規則と関連して水車設置願を提出したのは乞田の馬場森蔵である。彼はすでに二十九年五月に願書を提出していた。谷田川字半過田用水を利用するこの水車は、精米麦製造を目的とする水車一輌、臼数三輌、その差渡し一丈の規模のもので、十二月に多摩村会で議決され、その後郡長から許可された。この新設水車は三十年六月に竣工し営業する。
この頃、多摩村に存在した水車(稼人)は以下のようであった。増田啓次郎(乞田)、峯岸峯蔵、小山惣八(連光寺)、富沢平三郎、増島久蔵(百草)、伊野代次郎(和田)、小川健次郎(関戸)、小形伊三郎(連光寺)、相沢杢太郎(連光寺)、山田喜之助(一ノ宮)らがいた。このうち相沢は明治十二年より、山田は明治十五年、伊野は明治十四年、小形は明治十九年以来の水車である。前記有山平蔵水車を含め、明治十年代の水車稼が多い。当時の多摩地域の経済活動を物語るものである。他の水車は開設年次が記されていないが、三十年代前半までには開業されたものであろう。
明治四十三年六月、落合川を利用した紡績水車の設置が、横倉作次郎によって出願される(資三―246)。三十年の水車規則にそって提出されたが、これは水車業とはいえ精米業ではなく、紡績業であり、多摩村の製糸業の発展を示すものであった。
図1―5―10 水車経営免許願
図1―5―11 水車
多摩村における漁業の規模は明らかではない。明治三十年度の多摩村重要物産表(一編五章一節)では鮎、鯰、鰻、鰌、雑魚など一五〇〇円の書上がある。東京、府中へ出荷されたという。金額からみれば農産額と比較しわずかである。しかし多摩村の人々の生活に密着していた点では重要な産業である。
漁業が明治期を通じどのように変化するか明らかでないが、漁業者へ組織化は確実に進んだ。明治十年代、御猟場設置にともない川漁の統制も徐々に進められる。明治二十年四月には多摩川漁業組合の設立が許可されたが、この内容と多摩村の動きは不明である。多摩川鮎漁の漁夫名簿(資三―157)がわかる程度である。
多摩村漁業組合が連光寺に設置されたのは明治三十六年六月である(資三―245)。このとき漁業者数は八二人とされているが、同年度多摩村の「漁業組合経量徴収簿」(富沢政宏家文書)によれば組合員は九三人である。これらの人々の漁法は鮎雑魚釣漁業、鮎刎網漁業、鮎雑魚昼夜投網漁業、鮎雑魚寄川漁業、鮎伏し網上リ下リ漁業、鮎鵜飼漁業、鮎雑魚地曳網漁業、鮎雑魚目ざし漁業、餌トウ漁業、眼鏡餌漁業、友釣漁業、鮎しら漁業などにわかれており、各々の入漁料がきめられた(民―223頁)。
鮎漁の期間は六月一日から十月十四日まで、十一月十六日から十二月三十一日までの二回、雑魚は期間がなかった。明治四十年、連光寺の朝倉弁治郎の漁業鑑札下付願によれば、漁業の種類は鵜飼漁業と夜投網漁業となっており、場所は連光寺・関戸地先の水面とされている。漁獲物は鮎と雑魚であり、漁期は六月一日以来二回の鮎漁期と雑魚の一月より十二月までとなっている。漁法の細分化と組合員の多さは、漁業にかかわる多摩村民の量と質を示すもので、伝統的生活に深く組み込まれていることを示している。
明治四十三年四月、多摩村漁業組合は府中漁業組合と連合する。多摩川両岸の組合合同は漁業の繁栄をはかろうとするものであった。この多摩村組合と「一ノ宮漁業組合」との関係が明らかでないが、一ノ宮組合は四十四年三月に解散する(資三―247)。漁業区域の狭隘と漁獲物の減少がその理由となっており、ようやく自然の恵のみに頼る漁法に反省がせまられる時期となっている。