多摩合資会社は乞田一二三二番地市川家を本社とし薪炭・肥料の仲買を営業するものであった。「米穀肥料卸小売」ともされている。会社の営業期間は四十年十一月までの十年間とされ、資本金一万円であった。社長市川太右衛門、副社長富沢芳次郎、商務長小磯栄三郎で、株主七五人はいずれも多摩村民であった。この会社の実際の営業状況は明らかではないが、明治三十二年五月には多摩村農会と結び、農会員の肥料の共同購入を担当し、農会と密着していたらしい。共同購入は普通肥料、乄(しめ)粕、糠、豆粕のほか人造肥料、過燐酸石灰などで、これらを二分から一割引で販売することになっており、農会の共同購買機能を代弁していたのである。
多摩合資会社の社長以下の営業担当役員三人はまた、のちに述べる多摩村銀行の大株主でもあり、銀行の頭取、副頭取、取締役でもあった。別組織とはいえ、銀行は薪炭、穀類、肥料売買の金融部的性格をもち、しかも多摩村銀行が多摩村の公金取扱い機関であったこととも関連し、銀行―合資会社―農会―多摩村の関係は、村内有力者による営業、金融補完の役割を果したと思われる。維新期の米穀肥料商の諸機能を分社化した過渡的性格をもつものであった。
図1―5―12 多摩合資会社定款
有力者の経済活動補助機関としての右組織に対し、村内の中規模以下の人々を対象としたのが産業組合である。
明治三十六年九月、多摩村、由木村、忠生村三か村を区域とし生産購買販売組合が組織された(『東京府南多摩郡農会史』50頁)。本部は由木村別所におかれている。その目的は産業や生計に必要な物品を購入し、組合員に販売すること、また組合員の生産物を販売することであった。目的は「中産以下ノ人民ニ産業上必要ナル資金ヲ供給」することであった。生産組合は南多摩郡における最初の産業組合であった。
産業組合はその後、明治三十八年五月に堺村生産組合ができ、やがて堺村購買組合に発展するが、この購買組合は、日露戦争後は各村で設立される。多摩村独自での組合は明治期を通じなされていない。おそらく多摩村銀行などの影響と思われる。