明治二十年代から都市部の、比較的資本の多い銀行が支店を拡大するかたちで農村部に進出するが、農村の現実は相変わらず質屋金融が主流であった(資三―231)。しかし地場産業の発展にしたがい隆盛する経済取引きに質屋金融では間に合わず、銀行による多額融資が必要になる。資本主義社会への移行期としての明治三十年代は、都市部中心の近代的金融だけでなく、また農村の質屋に代表される生活金融ではない、成長しはじめた地域市場に対応する小中規模の銀行が要請されていた。
このような時代的要請で生まれたものが多摩銀行である。八王子の八王子銀行と七十八国立銀行が合併した八王子第七十八銀行が明治二十九年に成立し、南多摩郡の当時の金融界をリードする。青梅町の多摩銀行(明治三十年十月)、多摩村の多摩銀行(明治三十年『多摩町誌』)、多摩村銀行(明治三十三年四月)、拝島産業銀行(明治三十三年六月)、府中銀行(明治三十三年七月)、調布銀行ほか七行(明治三十三年)開業などは一町村ないし数村規模のもので、ある意味ではのちの産業組合の資金部的性格を果す。
多摩銀行(『多摩町誌』)の資料は全くみることができないが、多摩村銀行は明治三十三年(一九〇〇)、産業革命にともなう経済膨張に、農村で対応する必要から生れた。認可は六月五日で、七月一日に開業した。設立趣意書によれば多摩村の戸口六〇〇余戸、三八八〇余人。資本総額は約一二万円、「生糸、撚糸、薪炭、米穀ノ他ニ輸出セラルベキ物産並ニ加工品ハ其価格実ニ参拾万円余、随テ之ニ供フ購買力ヲ有ス」(資三―236)とある。農業経営にも資金が必要となり、近村を加えれば「銀行ノ設立ハ最モ必要ナル事業」であるという。
図1―5―13 多摩村銀行預金通帳
図1―5―14 多摩村銀行に関する『万朝報』記事(明治39年10月13日)
多摩村銀行は乞田一二三二番地市川家に本店がおかれ、当座の資本金五万円、一株五〇円の株式会社であった。頭取は市川太右衛門、副頭取は富沢芳次郎、取締役は小磯栄三郎ら五人、支配人は林意三郎であった。株主一七一人は全員が多摩村民である。筆頭株主は五五株の小磯栄三郎、ついで五〇株の市川、富沢らであった。
多摩村銀行の「第一期営業報告書」(市川篤一家文書)によれば、創立以来、同年十二月までの半年間の成績はまずまず順調であった。世間では米作不振、米価下落の経済不振のさなか信用の基礎がかたまり、預り金は一万円以上に達し、割引日歩の収入も多く、「漸次確実ニ営業ノ基礎ヲ鞏固」(同)にしたという。しかし、この銀行の行き詰まりは意外に早く、三十八年には銀行業務の刷新のため頭取代理に市川菊次郎が就任し、業務整理を開始する。三十九年五月の村会では多摩村銀行問題が主題として審議された。多摩村の公金(基本財産蓄積金、学校建築資金)預り銀行であったため、村会議員はその保護を求め、満期日の返還を求めた。佐伯村長は「本村基本金ノ預入シ置クコトノ不利ナルヲ認メタルニ依リ、其預金全部ノ払戻ヲ同行ニ請求」(「自明治三十九年至同四十一年村会議事録」)した。
ついで開かれた五月十九日村会では、満期後なお払い戻せない場合、重複連帯の延期証書を提出させ、その期日になお滞る場合は、「其筋ニ上申スルコト」(同)を決議した。多摩村公金は五一円六二銭六厘と二七二円四〇銭の二口があり、そのうち二七二円余が延滞となり、村会では交渉委員を選び交渉にあたったが、ついに十一月に重役拘引事件に発展する。多摩村銀行の破産による整理作業は明治四十年に終わる。農村の経済的発展に対応できぬまま短い役割を終える。