地域物資の資金的流通を担当するのが銀行ならば、その物資の物理的流通を担当するのが鉄道である。地域物資の運搬手段とし、市場経済を活性化する手段であった。
日本の鉄道は明治十年代を第一次とし、産業革命期の明治三十年代前後を第二次の鉄道敷設ブームとする。明治末期から大正初期に第三次ブームが到来する。多摩地域では明治十九年三月、内藤新宿と八王子間に馬車鉄道の敷設が許可された。同年十一月には甲武馬車鉄道会社となる。明治二十二年四月に甲武鉄道の新宿・立川間が開業する。明治二十七年五月には横浜・八王子間の鉄道敷設が、同年七月に平塚・八王子間の鉄道敷設が出願される。同十一月に青梅鉄道も開業する。明治三十二年二月横浜・八王子間が出願され、三十五年十二月に認可される。三十年前後は多摩地域の鉄道時代であった。
多摩村に関係するものとして、この間、明治二十九年八月「東五鉄道」(富沢政宏家文書)が計画され出願された。東五とは東京と西多摩郡の五日市を結ぶ意味で、赤坂福吉町を起点に世田谷村から調布、稲城、多摩村を経由し、八王子、川口村から五日市に達するもので、甲武鉄道に並行するものであった。創立発起人には富沢政賢、小川平吉など沿線町村の有力者を網羅していた。会社の資本金は一五〇万円、三万株で一株五〇円で募集する予定であった。純益七万円余を見込んだこの鉄道は、多摩・稲城村間で乗客六六万五五〇〇人、その収入七万円余、貨物一〇万二六〇〇トン、その収入二万円余に計算されており、多摩・七生村間はさらに多く乗客一一九万七六〇〇人、貨物一九万九〇八〇トンとされている。果して当時これだけの人と物の交流が、多摩村を中心に可能であったのか不明である。創業準備は一年ほど行われたが、ついに実現していない。
明治三十四年五月、谷保村で多摩川沿岸共有地の砂利採取事業が始まった。建設資材として有望になりつつあった砂利を利用しようとして、その運搬のため当初組織されたのは玉川電気株式会社である。その後、玉川砂利鉄道と名称をかえ、多摩鉄道株式会社ともいった。この会社は東京砂利鉄道会社と対抗する。
このような鉄道間競争に対応し、多摩村が「多摩川沿岸砂利採掘及東京砂利鉄道敷設ノ件」(富沢政宏家文書)で区会を開いたのは明治四十年三月である。同月十六日の村会では「多摩村大字連光寺・大字関戸地内専用鉄道布設ニ付承認ヲ与ヘントス」(「自明治三十九年至四十一年村会議事録」)る決議をした。
これより先、同年二月には連光寺および関戸の多摩川沿岸民有地、ならびに共有地全部の砂利と採取権を、二十五年間売渡すことを契約していたが、その面積は六〇町歩で、一町歩につき一年二〇円と定めている。この契約は連光寺および関戸地区代表の富沢政賢、高野鎌太郎、小川信太郎と橘樹郡生田村北見源蔵との間で結ばれている。この北見は玉川砂利鉄道の代表者である。明治四十年六月設立のこの会社と多摩村は交渉を続けており、村会決議はこの承認であった。しかし、四十二年頃に交渉は行き詰り、同年八月設立の東京砂利鉄道に交渉先をかえる。
東京砂利鉄道は現在の国分寺駅から分岐し、東京競馬場にいたる六キロの鉄道である。明治三十九年十月に甲武鉄道は国有化され中央線となっており、中央線の支線として開発され、のちの国鉄下河原線となる。この東京砂利鉄道は明治四十三年六月に開通する。