多摩村と学校運営

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近代国家としての制度的な枠組みが確立する明治二十年代、国民教育制度の枠組みも確立してくる。本節はこの二十年代から三十年代の教育を扱う。まず、明治二十年代の教育法令の動向に関して概観しておこう。明治十九年制定の小学校令を廃し、明治二十三年(一八九〇)十月七日、勅令により第二次小学校令が制定される。明治地方自治制との関連を重視したもので、これにより学校の運営の問題は学区から行政村に移行し、国家が自治体に委任する事務とされた。一方、同年同月三十日の「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)は、国民教育の根本方針として天皇と国家への忠誠と奉公(忠君愛国)を押し出した。これが道徳教育(修身)や、学校行事などを通じて精神教育に圧倒的な力をもつこととなる。
 ところで、一編四章一節にみたように、町村合併を経て成立した多摩村の行財政は当初極めて限定的なものだった。学校運営も多摩村の行財政には当初含まれていない。各学校単位に独自に運営されているためである。この措置は、行政村に対応した第二次小学校令が、関連法規の公布の遅れによりなかなか施行できなかったことと大きく関係している。
 明治二十二年(一八八九)七月から九月にかけて、各学校学区の臨時「存続村会」が開催され、同年度予算案審議がおこなわれた(富沢政宏家文書)。これが多摩村誕生後はじめての学事行政予算の審議となる。表1―5―7にこの時の各学校の予算(経常費)をみると、まず、支出に比べて経費負担のあり方が学校ごとにかなり違うことがわかる。寄付金への依存度が高く戸別割(住民税)を欠如する向岡学校、地価割への依存度の高い処仁学校と昭景学校、分散的に経費を調達し、戸別割の一戸あたり平均賦課額の高さが特徴的な和田学校、といった具合である。これは学区内でそれぞれ独自に経費を調達して運営しているためである。ただし、学校ごとの先の経費負担上の特徴は固定しているわけではなく、今後さらに分析が深められる必要があるだろう。次に、各学校の経費負担上旧村が考慮されていることが、この表からわかる。各学校議員も旧村ごとにでていると判断でき(「村会議事録」)、その意味では旧村連合による学校運営といってよいだろう(ただし和田学校は旧和田村単独での運営)。これは、「落合村外十六ケ村」学区時代末期の学校運営(一編三章五節)のあり方の継続と考えられる。なお、和田学校は「落合村外十六ケ村」学区時代末期の明治十九年段階では、「和田分校」である(伊野弘世家文書)。この名称の変化は、もともと生蘭学校の分校であった当学校が(一編三章五節参照)、多摩村の成立を契機に正式に独立校となったことを意味すると思われるが、詳細は不明である。
表1―5―7 明治22年度・各学校予算の比較
向岡学校
(「元連光寺村外一ケ村聯合村」)
処仁学校
(「元乞田村外二ケ村聨合村」)
和田学校
(「元和田村」)
歳入
地価割 64.661 [30.9] 104.406 [61.5] 38.586 [36.2]
 
各旧村
負担内訳
連光寺 48.968 乞田 35.633
関戸 15.693 貝取 20.602
落合 48.171
 
対地価100円 15銭 15銭 16銭
戸別割 17.394 [10.2] 27.814 [26.1]
――― (60)
各旧村
負担内訳
乞田 5.770(68)
貝取 3.903(46)
落合 7.721(91)
一戸平均 8銭4厘 46銭3厘
寄付金 101.839 [48.6]
連光寺 61.103 ――― ―――
関戸 40.736
授業料 42.000 [20.0] 48.000 [28.2] 18.600 [17.5]
一人月額 5銭 5銭 5銭
雑収入 1.000 [0.5] ――― 21.600 [20.3]
合計 209.500 [100.0] 169.800 [100.0] 106.600 [100.0]
歳出
俸給 180.000 [85.9] 126.000 [74.2] 72.000 [67.5]
雑給 4.700 [2.2] 17.500 [10.3] 2.500 [2.3]
需要費 12.800 [6.1] 14.300 [8.4] 21.100 [19.8]
建築修繕費 12.000 [5.7] ――― ―――
借家料 ――― 12.000 [7.1] 11.000 [10.3]
明治22.7.8 明治22.7.6 明治22.9.4
存続村会(臨時)即日議決 存続村会(臨時)即日議決 存続村会(臨時)即日議決
 
昭景学校     *…七生村
(元落川村外三ケ村聨合村)
歳入
地価割 133.040 [64.3]
 
各旧村
負担内訳
*落川 49.201 〈多摩村内分 4.258〉
*百草 34.169 〈同上 2.921〉
一ノ宮 48.489
東寺方 38.141
対地価100円 18銭5厘
戸別割 36.960 [17.9]
各旧村
負担内訳
*落川 9.450(45) 〈多摩村内分 2.520(12)〉
*百草 9.660(46) 〈同上 1.260(6)〉
一ノ宮 7.980(38)
東寺方 9.870(47)
一戸平均 21銭
寄付金
―――
 
授業料 37.000 [17.8]
一人月額 不明
雑収入 ―――
合計 207.000 [100.0]
歳出
俸給 168.000 [81.2]
雑給 3.900 [1.9]
需要費 30.100 [14.5]
建築修繕費 ―――
借家料 5.000 [2.4]
議決月日不明
 
単位:円 [ ]内は各学校予算額合計に対する割合(%)( )内は戸数
各学校・明治22年度予算決議書(昭景学校のみ予算議案)(富沢政宏家文書)による。
昭景学校については同学校・明治22年度決算表(『日野市史史料集』近代1、186号文書)予算額で補足。
注)昭景学校の需用費は借家料を除き試験費を加えた額による合計。

 各学校の学区のうち、昭景学区以外の三学区を構成する地区は多摩村内に全て含まれ、その「存続村会」も多摩村役場で開催、村長が議長をつとめている(「村会議事録」)。その限りで多摩村への学区の求心力も生まれていたとはいえるかもしれない。しかし、多摩村内の東寺方や一ノ宮地区などが属す昭景学区は、七生村(日野市)内の落川地区が中心である。実際、昭景学区の「存続村会」史料は多摩村の議事録の中には見いだせない。学区による地区間のつながりは、多摩村と大きく重なり合いつつもズレているのである。
 このように、多摩村成立当初の学校運営は学校単位の「存続村会」により別々に処理され、財政的にもまちまちであった。その多くは旧村を基礎とした連合組織体であり、かつ必ずしも行政村多摩村の線引の内側に納まるものでもない。つまり、成立当初の多摩村は、学校運営においては意味ある領域・存在とはいいがたいのである。通学や経費負担を始め、学校が人々の生活に与えつつある影響の大きさを考慮にいれれば、多摩村の住民という帰属意識は、その当初かなり希薄であったことが想定できるだろう。