兆民小学校の誕生

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明治二十四年(一八九一)十一月、第二次小学校令の全面施行に必要な多くの文部省令が出され、漸く地方自治制に照応した学校運営体系への改変が実施されていく。多くの府県では、明治二十五年四月になって一挙に第二次小学校令を施行したが、神奈川県では明治二十四年中に一部をすでに施行していた。
 これをうけて、多摩村でも学校運営をめぐる改正がすすめられた。明治二十四年八月十日、富沢村長は「町村尋常小学校設置取調書」を郡長に提出する(「東京府文書」都立公文書館蔵、以下「取調書」と略す)。六月三十日の村会諮問案「小学校令一部実施方針取調要項」(資三―175)以降、議論されてきた多摩村内小学校の新体制についての結論といえる。ここにおいて、多摩村と学校運営組織の領域を一致させることが明確に示された。その際、問題となるのが先に触れた昭景学校の扱いであるが、「取調書」によれば、その学区中の多摩村分(一ノ宮、東寺方地区と落川・百草両地区の飛地)を分離して和田学校に組み入れ、和田地区に学校を新設することとなった。その名称は、この時点では「和田学校」のままとされたが、後述するように兆民小学校として開校することとなる。この新設計画をうけてと思われるが、「和田学校上棟式」が十一月二十三日に行われている(「富沢日記」)。一方の向岡、処仁両学校の学区はそのまま継続することとされ、多摩村内で完結する三つの学校の体制がここに示されるに至ったのである。
 この三校体制は明治二十五年四月五日に郡長より指定された(「東京府文書」東京都公文書館蔵)。同月十一日臨時村会で同年度追加予算(経常費)として教育費がはじめて計上される(富沢政宏家文書)。兆民小学校が四月二十日に授業を開始し、五月一日開校式を行う(「富沢日記」)。これは新築開校を意味するのだろう。すでに一編四章一節でみたように、明治二十五年度以降多摩村財政に教育費が登場し、後述する学校新増築の臨時費も加え、その財政規模は一気に膨張する。多摩村単位での学務委員も設置された(四月十一日議決、富沢政宏家文書)。学務委員は一編三章五節にみたように明治十八年に制度上廃止されたが、第二次小学校令で復活した。だが、復活した学務委員はあくまで行政村の委員として村長を補助するものであり、性格が以前と異なっている。また、小学校の正式な呼称において、「~学校」が「~小学校」になったのはこの年であり(『多摩町誌』)、五月二十五日の村会で兆民小学校を含めた三校の名称が確定した(資三―177)。
 ここに多摩村は、それまで学校ごとであった村内学事行政を吸収して統一的な担い手となり、学校教育上、多摩村とその領域は大きな意味を持つことになった。多摩村の歴史を学校教育からみた場合、明治二十五年は大きな画期なのである。兆民小学校の誕生はそれを象徴する出来事といえよう。そしてこれ以降、多摩村住民としての帰属意識も格段に強まっていくと思われる。ただ、他地域ではこの時期以降も、学区による独立した学校運営が存続する場合が多い点には注意しておきたい(「東京府文書」東京都公文書館蔵)。
 なお、一編三章五節で触れた連光寺地区下川原の問題が、この三校体制論議の中で取り上げられている。先の明治二十四年の「取調書」では経済的問題(独自校設置維持の困難か)と通学困難を理由に、下川原の生徒を「府中学校」(府中町本町)に委託することが示され、翌年の三校指定後の十月十一日の臨時村会では委託費用の議論がなされた(「村会議事録」)。その後、明治三十五年(一九〇二)五月十一日村会でも委託について議論されているが(「事務報告書」)、これは西府村(府中市)への委託である(『多摩町誌』、奇秀小学校と思われる)。西府村側でも受入費用をめぐる当時の村会決議(五月二十七日)が確認できる(『府中市教育史』資料編一)。この委託先の変更に関する事情は今のところ不明である。