村財政と学区

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ところで、多摩村が学事行政を吸収したことは一方で財政的な圧迫を引き起こす。特に、村会議員をはじめとする名望家たちが、経費節減と民力休養を掲げ政府と対決姿勢にあった日清戦争以前の段階にあって、村会では村財政における教育費、特にその大半を占める教員俸給額が当初から問題となっていた。
 明治二十五年五月二十五日の臨時村会で、雇い入れる教員の俸給額(資三―177)が議論された。結果、減額修正案を主張した小金寿之助(連光寺地区)に賛成する関戸、連光寺、百草地区の四人と、原案賛成の和田、東寺方、落合、乞田、貝取地区の五人、という形で辛うじて原案が成立する。だが、これに対し緊急動議が先の修正案賛成者である相沢兵蔵・小金寿之助・臼井庄蔵・富沢芳次郎により提出、再度上記修正案が「緊急建議」として提案されるにいたる。その減額理由は、「経費節減ハ民力休養ノ要務」のところ「小学校令実施以来ノ村税増額」、将来的に昇給制の教員給料により村税負担に村民が耐えられなくなる、というものであった。この建議は「秘密ヲ要スル」として傍聴を禁じた形で論議され、満場一致の原案可決となった(この時、和田地区村議の真藤龍蔵は欠席している)。すなわち、村会決議はひっくりかえされてしまったのである(「村会議事録」)。
 以上にみたとおり、多摩村が学事行政を吸収したまさに最初期の村会が、教育費をめぐる対立の場と化した。そしてこの対立は、学区間の連携と対立の色合いを強く帯びていたと考えられる。実は、先の村議の対立で減額修正派はほぼ向岡学区、原案賛成派は処仁、兆民両学区にそれぞれ対応するのである。そこには、多摩村の行政上中心となった連光寺、関戸地区を学区とする向岡小学校と、それ以外の地区を学区とする処仁、兆民両小学校、ということがあるのかもしれないが、さらに検討が必要だろう。ただ、学区間の対立と連携、それ自体に関してはとりあえず次のように考えておこう。学校運営の問題が各学区から多摩村に移行したことは、確かに多摩村の一体性を強める上で大きな役割を果たしたといえる。しかし、そのことは独立採算と運営を否定されたそれぞれの学区の人々が、共通の村の教育費をめぐり、自分たちの学校の利害を代表して議論する関係が生まれたことも意味する。互いに分立していた学区の多摩村への糾合こそが、一方では学区間の対立や連携という形で学区としてのまとまりを逆に意識させ強める方向にも作用した、というわけである。