村内における各小学校学区としての地区結合の強まり、これを考える上で重要な問題に学校建設と修繕がある。第二次小学校令のもと学校施設の充実が必要となり、多摩村では校舎建設が相次ぐ。明治二十五年(一八九二)の兆民小学校新設の他、処仁小学校の校舎新築が明治二十六年四月十五日に、向岡小学校の校舎増築が明治三十三年(一九〇〇)四月二十二日に落成している(「富沢日記」、資三―179、「事務報告書」)。こうした臨時費に計上される学校建築経費は基本的に各学区、それを構成する各地区(旧村)の負担となる。向岡小学校増築の場合、増設に要する敷地購入は連光寺地区の負担、増築資金は連光寺地区にある連光寺と関戸の両地区共有地払い下げ金と、地区の分担金による。また連光寺地区の分担金の一部は、同地区共有地の払い下げによっていた(「村立向岡小学増築書類」「南多摩郡多摩村連光寺区会書類」富沢政宏家文書)。処仁小学校校舎新築の場合も、学区内の落合地区で経費捻出に区有財産が「建築寄附金基本」のためとして売却された(「村会議事録」)。また建築資金として当地区の八八人から寄付が行われている(「学校新築費割合出金帳」寺沢茂世家文書)。これは、各自がその土地所有高の多寡に応じて金額を寄付したものであり、寄付人数と地区戸数が近い事を考え合わせれば、地区ぐるみで臨時税的に集められたと考えられる。経費は最終的に九九五円六二銭三厘、不足分は村財政から補充された。しかし、その補充額は一〇五円程度にすぎなかった(資三―180)。
学区とそれを構成する地区(旧村)の負担は建築だけでは終わらない。例えば明治三十三年(一九〇〇)の処仁小学校の屋根修繕は、その見積額六〇円中、半額を「町村費」(多摩村費と思われる)、残り半額を落合、乞田、貝取各地区が負担するという形をとっていた(「処仁尋常小学校屋根修繕控帳」寺沢茂世家文書)。
こうしたことは、各小学校を軸に多摩村内の各地区がそれぞれまとまる方向で作用したと考えられる。そして各地区は、共有財産の売却や臨時税的寄付金により地区ぐるみで学校経費の負担に関わり、各学校を支えていたのである。