三校への高等科併設

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ここで日清戦争後、明治三十年代の教育法令の動向について概観しておこう。明治三十三年八月、第二次小学校令は勅令により全面改正された(第三次小学校令)。この法令のもとで教育の制度と内容の両面での整備統一をはかるとともに、学齢児童全員の就学とその定着を目指して体制が整えられ、国民皆学の実質化が強力に推進された。一方、教育内容に関しては主要科目の国定教科書制度が明治三十六年(一九〇三)四月十三日に成立、翌年四月より実施された。教育勅語を根本理念とした教育内容の国家統制が一段と強まることとなった。
 以下、明治三十年代の多摩村の学校教育について、「南多摩郡各町村巡視之状況報告書」(「東京府文書」都公文書館蔵、以下「報告書」と略記)を中心に見ていく。この「報告書」は明治三十五年(一九〇二)十二月二十七日、郡長が府知事に提出したもので、明治三十四年十一月二十九日から翌年七月までを調査内容としている。
 この時期、多摩村の学校教育を考える上で重要なのは小学校高等科設置である。すでにみたとおり、明治十九年(一八八六)の小学校令では高等小学校(四年)設置の規定があり、第二次小学校令では尋常小学校への高等科併置(二年~四年)も可能になっていた。そしてこの高等科設置が、その後、日露戦後に確立する義務教育・小学校六年制を準備することにもなる。
 しかし、この段階では多摩市域が関係する学校に高等科は設置されず、明治二十五年の三小学校体制でも、補習科(三年)の各尋常小学校への併置にとどまっていた(五月二十五日村会決議、資三―177)。こうしたなか、第三次小学校令実施をうけて多摩村でも高等科がようやく設置されることになったが、それは三校尋常科すべてに等しく併置する形をとった。こうしたことは南多摩郡において他には例のない、きわめて特異なもので、表1―5―8に見るとおり、他町村では一町村内の複数ある尋常小学校のうちの一校のみに高等科を併置したり、尋常小学校とは別に独立の高等小学校を一つ設置する場合がほとんどなのである。このことからしても、一村内すべての小学校に高等科を併置する特異な状況は、多摩村にとって過重な負担という他はない。後年(大正五年)、この多摩村の三小学校高等科併置は「今日ヨリ之レヲ見レハ、真ニ無謀ノ挙タルノ感」なしとしない(資三―320)、と評されることになる。
表1―5―8 南多摩郡各町村の小学校設置状況
尋常 尋常・高等併置 高等
八王子町 2 1
横山村 2 1
浅川村 2 1
元八王子村 2 1
恩方村 6 1
川口村 2 2
加住村 3 1
小宮村 2 1
日野町 2 1
七生村 2 1
由木村 4 1
多摩村 3
稲城村 2 1
鶴川村 5 1
南村 2 1
町田村 2 1
忠生村 4 1
堺村 2 2
由井村 2
南多摩郡 48 15 7
「南多摩郡各町村巡視之状況報告書」(明治35年)より作成。

 多摩村会の場で第三次小学校令に関し協議が行われたのは、明治三十三年(一九〇〇)九月十六日のことであるが(「村会議事録」)、この時、補習科の年度末全廃と、村の中央に独立の高等小学校一校を新設することが協議決定される。当初、多摩村も通常のやり方で村内に高等科を設置する考えであったことがわかる。だが、この計画はまもなく変更される。翌明治三十四年三月三十日の臨時村会では、三小学校すべてへの高等科併置議案(二十八日提出、資三―267)が議決され(「村会議事録」)、この体制で五月七日に申請(資三―268)、三十一日に認可となるのである(伊野弘世家文書)。そこにいかなる事情があったのかはわからない。多摩村内の各地区(旧村)が学区としての結びつきを強めていたことを考慮するなら、当時の「一村平和維持ノ策トシテハ、最モ適当ナル手段」(資三―320)ということだったのかもしれない。そして、三校すべてに高等科を等しく設置したことで、村内三学区での地区結合はさらに強化されたといえるだろう。
 なお、この時点では向岡校四年、処仁校と兆民校は各二年と高等科年限に差があったが(資三―268)、明治三十六年(一九〇三)三月二十九日、村会で処仁校と兆民校に三、四学年増置が決定、四月二十三日認可となった(「村会議事録」「事務報告」)。三校ともまさに等しく尋常科四年・高等科四年の体制となったのである。