男 | 女 | |
八王子町 | 98.5 | 98.5 |
横山村 | 97.9 | 78.6 |
浅川村 | 99.5 | 77.1 |
元八王子村 | 92.6 | 76.0 |
恩方村 | 92.0 | 71.0 |
川口村 | 89.1 | 66.7 |
加住村 | 97.0 | 72.2 |
小宮村 | 92.1 | 71.8 |
日野町 | 90.2 | 80.6 |
七生村 | 94.7 | 79.0 |
由木村 | 94.3 | 82.0 |
多摩村 | 97.8 | 90.6 |
稲城村 | 98.7 | 98.4 |
鶴川村 | 88.0 | 74.4 |
南村 | 95.4 | 87.5 |
町田村 | 92.2 | 79.0 |
忠生村 | 92.0 | 73.7 |
堺村 | 98.5 | 83.0 |
由井村 | 87.0 | 70.0 |
郡平均 | 94.1 | 79.3 |
向岡 | 処仁 | 兆民 | 総計 | |
明治33 | 146 | 128 | 129 | 403 |
34 | 167 | 148 | 134 | 449 |
35 | 165 | 152 | 129 | 446 |
36 | 158 | 193 | 132 | 453 |
37 | 156 | 173 | 127 | 452 |
38 | 143 | 186 | 141 | 470 |
39 | 155 | 191 | 148 | 494 |
40 | 166 | 198 | 163 | 527 |
41 | 171 | 216 | 156 | 543 |
42 | 200 | 228 | 183 | 611 |
各年4月1日現在 |
『多摩町誌』より作成。 |
もちろん、こうした数字がどの程度実態(特に女子の場合)を反映したものなのか、さらに詳細な検討が必要だろう。だが、学校が村内の子どもを把握する体制が格段に整備されたことは間違いない。比較のためにこの時期より前、明治二十八年(一八九五)八月十五日の学務委員会での議論をまずみてみよう(「学務委員会議事録」富沢政宏家文書)。処仁小学校の訓導である沼績は、従来、授業料が一家二人以上の者は半額になるため、「未定年者」の就学が増加して教授上著しい困難を生ずる、よって「未定年者」入学を防止するため授業料は平等徴収とすべきだ、と論じた。ここで問題となっている「未定年者」とは、学齢に達していない子どものことと思われるが、そうした子どもたちの入学を阻止できない学事行政上の「ルーズさ」が、明治二十年代後半でも存在していたのである。学齢児童の全員就学を掲げた第三次小学校令の実施はこうした状況にメスをいれざるをえない。多摩村と同村の学務委員は積極的にそれを担ったとみえ、「報告書」によれば「単(ひと)リ多摩村ニアツテハ学務委員ノ組織備リ、其勤務成績大ニ揚リ、報酬ノ如キモ相当ノ支出ヲ為セリ」と特記されている。
第三次小学校令のもとでの就学督励の問題を考える上で重要なものに、尋常科授業料徴収の廃止がある。先の明治三十三年(一九〇〇)九月の村会協議で、多摩村でも来年度からの徴収廃止を協議決定し、明治三十四年度からの授業料徴収は高等科のみとなる。しかし「報告書」によれば、南多摩郡で実際に廃止したのは多摩村をふくめ六か村にすぎなかった。
以上のように、当時の多摩村は南多摩郡内でも学校教育に熱心な目立った存在だったことがうかがえよう。だが、それは同時に多摩村の住民の負担がますます重くなることも意味していた。まず、高等科併置や就学督励体制の整備による生徒数増加は、各学校設備の拡張を不可避のものとする。明治三十五年(一九〇二)四月十五日には、処仁小学校校舎が増築落成し(「事務報告書」)、翌年の処仁、兆民各小学校の高等科三、四年増置申請(四月十四日)の際には、将来の校舎増築が見込まれていた(「東京府文書」都公文書館蔵)。十八日の村会では両学校の新たな備品購入も決定された(「村会議事録」)。また明治三十四年に処仁校の運動場が増設されているが(「事務報告書」)、これは第三次小学校令で体育科が必修科目となったことに関連すると思われる。
明治三十四年三月二十八日、多摩村会に地租割制限外徴収議案が提出され、三十日に議決となる(「村会議事録」)。その理由は尋常科授業料撤廃による減収と、膨張する教育費などの経費への対応とされていた。こうしたなか、本章一節にみたとおり、当時村税滞納が問題化しはじめていた。多摩村の積極的な教育行政による負担が村民に重くのしかかっていたのである。