明治二十年代以降の学校教育では、教育勅語(明治二十三年)を根本方針とした忠君愛国教育のために小学校が位置づけられた点が極めて重要である。勅語謄本は勅語の出た翌日に全国の学校に配付された。そして以後、儀式としての勅語奉読式が学校行事に組み込まれて強力に浸透が図られる。「富沢日記」によれば、多摩村の小学校において勅語奉読式が最初に確認できるのは、明治二十四年(一八九一)一月十二日の昭景学校である。十八日和田学校、十九日処仁学校、二十日には向岡学校で行われた。以後、「紀元節」「天長節」のとき各学校で奉読式が行われていたことが日記からわかるが、明治二十七年(一八九四)三月九日には、天皇、皇后の銀婚式祭典の一環として向岡小学校で勅語奉納、との記述もみえる。さまざまな機会に浸透が図られていたのである。
忠君愛国教育の浸透を考える上で日清日露戦争の問題は無視できない。「富沢日記」に確認できるものをまず列挙しておこう。日清戦争に関しては、明治二十九年(一八九六)二月十六日に多摩村からの出征軍人の慰労会の会場として処仁小学校が使用され、恤兵会会長富沢政賢が出席、多摩村三小学校の生徒が参加している(「富沢日記」)。次章にみる日露戦争に関しては、明治三十八年四月二十四日、戦死者富沢源兵衛(陸軍一等卒)の葬儀に「学校生徒楽隊」とある。また明治四十年三月三日、多摩村郷兵会(一編六章一節参照)が向岡小学校で開催されたことも付け加えておこう。桃の節句ということで、花火や軍楽隊などで賑わったようだ。以上にみるように、学校教育の場に国家のすすめる戦争や軍事的なものが入り込み、生徒や村民に身近に実感させるものになっていたことがうかがえよう。
このように、小学校は天皇と国家への忠誠感情育成のためのいわば「前線基地」として明確に位置づけられ、強力に浸透が図られていったのである。
だが、一方で当時の小学校は、そうした側面ばかりで村に位置していたわけではない点にも注意する必要がある。小学校という場は村の生活と様々な形で接点をもっているのである。「富沢日記」によれば、明治二十二年四月三日、向岡・処仁・昭景・和田の四校合同の運動会が「玉川(多摩川)中州」で行われた。一、二日と行われた向岡学校での四校合同試験終了の締めくくりに催されたようだ。午後三時からは向岡学校で憲法発布、町村制自治祝賀と試験終了を祝って祝宴が催され五〇人が参加した。ここには、小学校が近代を象徴する祝祭の場として地域に位置した側面が集約されている。一編三章五節にみたように、合同試験は公開され年中行事化していたから、四月の一日から三日はずっとお祭り気分だったということになろう。ただし、そうしたイベント的な意味合いをもつ試験のあり方は縮小されつつあり、第三次小学校令の下では進級卒業の試験は行われなくなる。これに代わって学校の行事として定着していくのが、前記のような運動会であり、展覧会・学芸会などであった。これらは精神主義的で団体主義的な性格をもち、天皇や国家への忠誠感情育成に深く関連するのだが、おそらく地域では新しい村祭りの誕生として、まずは受けとめられていったと思われる。
近代を象徴するという点では、学校施設が日常的にも様々な会場として使われる点を挙げておこう。向岡学校は明治二十三年七月一日第一回衆議院議員選挙や、明治二十五年二月一日県会議員選挙の投票場となった(「富沢日記」)。「事務報告書」をみれば種痘、農事講習会、品評会表彰など、学校の利用は頻繁である。学校は村内にさまざまに持ち込まれる近代的なものを、村の人々が体験する場所ともいえるだろう。そして、すでにのべたような就学率の向上とも関連して、子供たちへの学校教育の必要性が社会的に認知されるようになっていく。
小学校は地域に様々な影響を与える文化センター的な存在として、そして子供たちに必要な教育を与える場として認知され定着していくのであり、それ故に各学校学区による地区のつながりも、単に学校維持の問題にとどまらない重要性をもってくるといえるだろう。そして、こうした小学校の定着過程こそが、前述の天皇と国家への忠誠感情育成のための「前線基地」として小学校が機能する上での前提ともなる、と考えることができよう。