日露戦争の勃発

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連日の朝鮮半島をめぐる日本とロシアの関係の新聞報道は、多摩村の人々もその切迫を身をもって感じていたようである。日英同盟を結びロシアとの交渉を進めていた政府も、開戦論と非戦論が展開される世論のなかで、軍部の要求をいれ開戦準備に着手したのは明治三十六年(一九〇三)十二月であった。陸海軍の開戦作戦計画の立案をもとに、三十七年一月には輸送船団を佐世保に集結させ、二月四日には御前会議で国交断絶と軍事行動の開始を決定した。八日には海軍が仁川沖でロシア艦隊を攻撃し、十日に正式に宣戦を布告した。「富沢日記」の二月十日の条には「昨九日正午、仁川港外ニ於テ日露開戦、(中略)日本海軍大勝報アリ」と記されている。八日の仁川沖海戦を日露開戦の口火ととらえている。
 この時期、多摩村の人々は新聞報道のみならず徴兵検査や軍事演習を通じ軍事行動に慣らされつつあった。多摩村は工兵大隊(明治三十年十一月)、輜重兵第一大隊(明治三十三年九月)、近衛工兵大隊(明治三十五年九月)、騎兵実施学校(明治三十六年九月)などの軍事演習に場所を提供し、部隊の分営宿所となっている。日露開戦後の三十七年九月にも近衛準備歩兵第三連隊第一大隊第四中隊が分営しており、戦争の実感は確実に広まっていた。行政的にも三十六年には動員事務に関する指示が、郡役所から出され、召集準備が極秘裡に進められていた。これら文書は秘と印され、用済み次第焼却するよう指示されている。
 開戦により直ちに動員令が出され、各村より兵士が召集される。二月八日に第一回動員令が出されて以来、明治三十七年中に四一回、三十八年中には三四回にのぼった。多摩村における召集状況は、三十七年九月まで八人が判明する。
 これを表1―6―1に示すと、第一回動員令で土方国平、富沢明作の二人が召集され、彼らは第一軍に所属し、直ちに朝鮮半島に渡っている。樹所専次郎、高田運太郎、小島仲治郎の三人は多摩村の第二陣とし三月九日に出征する。彼らは第三軍に編成され五、六月に朝鮮に出撃した。富沢源兵衛は開戦直前に現役兵として召集され、北海道旭川勤務であったが、この資料作成後大陸に渡り、二〇三高地戦に参加する。これらの人々を含め、多摩村より出征した兵士の戦争を通じての足どりは明らかでない。
表1―6―1 多摩村出身兵士の出征状況(明治37年9月)
召集入営日 兵士名 所属 備考
明治37.2.8 土方国平 第1軍第1師団補助輸卒隊 明治37.2第1軍として出征
2.8 富沢明作 同上 同上
3.9 樹所専次郎 第3軍第1師団第1野戦電信隊 明治37.5第3軍として出征
3.9 高田運太郎 第3軍野戦後備歩兵第1連隊 明治37.6同上
3.9 小島仲治郎 同上 同上
5.6 田中作治郎 東京湾要塞砲兵連隊
7.27 富沢八百蔵 近衛師団補助輸卒隊 明治37.8近衛師団として出征
明治36.12.1 富沢源兵衛 旭川歩兵第26連隊
「軍人状態調」富沢政宏家文書より作成。

 日露戦争に参加した多摩村の人々が何人かも明らかでない。「富沢日記」によれば四月十五日に乞田の有山寛が召集令状による入営となり、五月四日に田中作治郎とともに市川千代吉も入営しているがこれら二人が表1―6―1に出ない理由は分からない。資三―250によれば石坂五三郎ほか三人が、判明する。明治三十八年(一九〇五)二月現在の「出征及在営軍人数」(資三―252)は、多摩村では応召者四九人、戦病死者を含め五八人となっている。もっとも当時はいまだ戦争中であり、その後も出征した筈である。戦後、多摩村で戦病死者建碑を兼ね軍人慰労会が開かれている。その際の慰労軍人数は八七人であった。
 村に残った人々も戦争協力にかり出された。日清戦争以来、軍資金献納が奨励され、また義勇艦隊建設資金の応募、赤十字社基金の増資など強制されている。戦時増税にくわえて直接戦費を生み出す国債購入も強制されている。明治三十七年三月に第一回募集以来、八王子第七十八銀行におかれた日本銀行八王子派出所から各町村役場に督促されている。多摩村では第一回が一二三人から一六一円余、第二回は二七人から五九円余応募があったが、第三回以降は困難と報告しており、他町村同様それ以上はたやすく協力はできなかったらしい。