日露開戦にともない出征兵士の留守家族の救護が焦眉の急となる。八王子では二月に奨兵義会が組織され、その他、町村でも救護団体を組織し救助にあたっている。
当時の開戦後の農村状況調査(資三―252)によれば、開戦以来金融渋滞し需要の減少に応じ生糸業、織物業をはじめ一般経済界も不振となり、農業も労働力不足と金融逼迫のため肥料購入が困難となり不況気味となっている。そのため納税状況は本来スムーズでない多摩地域は一層停滞し、滞納者の状況も従来どおりである。八王子町では増税により困難度を増したという。各町村とも勤倹貯蓄に注意していたらしい。
このような生活状況のなか、軍人家族ならびに遺族の状況は、中等以上の資産家は影響は少ないが、下流のものは労働力不足で多大の影響を受けており、農家の場合、耕作および養蚕規模を減少している。極貧のものは救護団体や政府の扶助でも生活費の半分にも足りず、各自が日傭稼や行商で自活するという。多摩村では目籠作りをした人もいた。これら留守家族への救護は、各村とも生活程度を二、三等に区分し、一戸一か月五円以下の救助と農繁期の労働力の補助をしている。南多摩郡全体の救護者は三十七年十二月現在二八〇戸、救助金七三六三円であった。
ところでこの救護団体は、明治三十七年四月、隣保相扶の私設団体を設け、応召軍人の家族を救援するよう郡役所が各町村に指示していたが、八王子町のごとく奨兵義会のような団体が設置された形跡はない。日清戦争時、南多摩郡に徴兵慰労義会が組織され各村に支部がおかれたうえ、恤兵義会のごとき私設団体が結成されたのに比較し、まったく取り組みは遅れていた。郡下の多くの村々は日露戦争時はそれまでに組織されていた尚武会を利用する。
尚武会は本来、軍国主義化をめざし体力増強をはかる団体である。その目的の一部として現役兵の帰村時に慰労金を出すことを行っていたが、この機能を拡大し留守家族の救護まで担当させようとしたのである。ところが本来設置趣旨が異なるため充分機能せず、結局その組織のみを利用し、各村の尚武支会に救護団体の役割をおしつけることになった。尚武支会長は各村長である。村ぐるみの救護に適当であった。
多摩村でも尚武支会(支会長富沢政賢)のもと「多摩村出征軍人家族貧困者扶助金給与規約」(資三―252)が定められている。扶助の度合を三等に分ける。扶助金は一人につき一か月二〇銭から七〇銭支給することになっていた。救助資金は総額五〇〇円とし、その分担法は三十六年度府税負担額に応じ、各大字にわけて徴収することになっていた。出征兵士に対する慰問は各大字組長が中心となり、適宜慰問することとし、家族生活の状況を視察し、応召および入営者に対しては各字の青年同志会が出金し、送別会を開く状況であった。このような出征軍人家族の救護を目的に、のちに在郷軍人を中心に「和田・百草特志会」(増島正治家文書)が組織されている。
なお直接救護を目的としないが、多摩村全体でのちに在郷軍人会として「多摩村郷兵会」(資三―255)が組織される。この会は「軍人ノ精神ヲ継持シ互ニ交誼ヲ厚シ、尚武心ヲ発達」することを目的としており、主に軍人精神の涵養を通じ農村の軍国主義化を推進する役割を担当した。