出征兵士と村葬

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開戦後、日本軍は二月から三月にかけ第一軍が朝鮮に上陸し、ほとんど戦闘なしに北進、鴨緑江岸に集結した。五月には鴨緑江を渡りロシア軍を破り、鳳凰城を占領し遼陽への攻撃を準備している。第二軍は五月に遼東半島の塩大澳に上陸し、南山を攻略し大連を占領した。南山の戦はわずか一日で終わったが、日本の死傷者は四三〇〇人に達し、砲弾が欠乏するという予想をはるかに上まわる戦闘規模となった。
 五月に出動した第三軍は八月十九日旅順総攻撃を開始する。ロシア軍の抵抗により一万五〇〇〇人の大損害をうけ、二十四日に第一回総攻撃は中止する。遼陽戦はその四日後に行われ、第一、二、四軍の一三万余の日本軍と二二万のロシア軍が戦った。戦闘は九月四日に日本軍勝利で終わったが、この時の多摩村出身兵の戦死者はいない。
 旅順総攻撃は十月二十六日に第二回目、十一月二十六日に第三回目が行われ、二〇三高地攻略を主目標とした。壮絶な総力戦の結果、十二月五日ようやく山頂を占領した。富沢源兵衛はこの時戦死する。十一月三十日「旅順第二〇三高地ニテ戦死」(資三―251)とある。新倉理助、小林国平、有山鶴吉、青木勝蔵もこの戦いの戦死と思われる。旅順総攻撃は兵力一三万のうち五万九〇〇〇人の死傷者を出すという大損害であった。
 翌年一月、敵将ステッセルの降伏をうけ、十三日に旅順に入城するが、黒溝台の戦いに勝ち、満州でのロシア軍の拠点の奉天占領の作戦をたて、三月一日総攻撃を開始した。十日に奉天占領するも、日本軍の死傷者七万人を出す日露戦争最大の会戦となった。小島仲治郎、小林又治郎の戦死はこのときと思われる。政府はこの戦いを契機に講和の方針を決定し、五月の日本海海戦を経て、八月に講和条約が成立する。
 一年七か月におよぶ日露戦争において、多摩村の戦傷死者は一二人であった。表1―6―2はその名簿である。
表1―6―2 日露戦時多摩村戦傷死者名簿
死亡日 兵士名 出身集落 戦傷死別
明治34.1.24 石坂要蔵 和田671 死亡
明治37.3.5 横倉豊治郎 落合3142
6.15 寺沢金之助 落合434 戦死
11.27 新倉理助 乞田398
〃  小林国平 関戸860 戦傷病死
11.30 富沢源兵衛 連光寺15 戦死
12.1 有山鶴吉 落川1323
明治38.3.9 小島仲治郎 連光寺352
3.9 小林又治郎 乞田1430
5.20 横倉亀太郎 落合1953
9.21 伊野平治 和田1845 死亡(公傷死)
9.22 青木勝蔵 和田1714 戦傷病死
11.21 須藤林蔵 関戸1157
「戦病死者遺族並公傷病者名簿」、「遺族資産調書」(多摩市行政資料)より作成。

 明治三十四年一月二十四日北清事変において山海関で公傷死した石坂要蔵が含まれているので一三人が表示されている。戦傷死先の明示はないが、戦死日は戦争経過とのかかわりでおおよその見当はつく。
 出征兵士の一人高田運太郎は、十二月十二日付の村長宛手紙のなかで、八月十九日の激戦で下士官以下一二〇〇人の死傷者を出し、そのうち二四五人は即死者であったと報じているが、これは旅順総攻撃の開始日であり、高田自身このとき負傷する。富沢家縁者で、第一軍所属の当麻伝兵衛も遼陽戦の激しさを伝えている。
 多摩村出兵者のうち最初に帰村したのは、三十八年四月十七日の富沢源兵衛の遺骨である。「富沢日記」によれば二十四日「旅順院忠誉本源居士葬儀執行」し全村民が連光寺の高西寺に集まった。ついで同年十一月に青木勝蔵の遺骨が帰村する。十一日午後一時日野停車場に到着、村民あげて高幡不動尊前に出迎えている。三十九年二月には増島梅吉が凱旋し、十四日午後二時に関戸南大河原広場で村民が出迎えた。この月、樹所専次郎、山田富蔵、萩原今蔵、ついで田中作次郎、市川千代吉らも凱旋する。三月九日には陸軍上等兵小島仲治郎の村葬が行われ、四月十八日にも伊野平治の葬儀が執行された。この頃までには出征者全員が帰村しており、四月五日高西寺で多摩村出身兵士戦死人追弔会が、十五日には連光寺で征露軍人祝賀会が挙行され、十月七日には多摩村出征兵士の合同葬儀(東寺方寿徳寺)ならびに凱旋兵士慰労会(和田兆民学校)が行われている。多摩村もまた多くの犠牲を強いられたのである。

図1―6―1 「旅順院忠誉本源居士」の墓と戒名