富沢村長から佐伯村長へ

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日露開戦当時の多摩村村長は富沢政賢であった。彼はその日記をみれば村長として熱心に勤めたようである。出征兵士の送迎、留守家族の扶助、国債募集、馬匹徴発、馬糧買上げなどすべてに関わっている。
 このようなさなか、八月三十一日、「軍馬用麦御買上」(富沢日記)の相談に郡吏森氏が来村、富沢家に一泊する。このとき初めて馬糧買上げが問題となり、多摩村は三九四円分の大麦を八王子町で買入れ、そのうえ自村分二二九俵(代金八一八円)を加え、日野および国分寺停車場から送り出している。八月中、稲城村では軍馬飼料として大麦一三八〇俵供出しており、多摩村もこれにならったのであろう。
 「富沢日記」によれば九月四日に、「陸軍馬糧大麦本村召集買上ケ之分渡方ニ而、国分寺停車場ヘ出張」とある。九月七日にも「軍用応募大麦弐俵日野町ヘ差送ル」とある。この日栗原郡書記と日野で話合ってもいる。この件に関わり十月五日、東京から判事・検事が出張、多摩村役場の帳簿を調査のうえ、富沢村長の出頭を求めている。これにともない村長は依願退職する。
 十一月十三日、召喚状が郵送され、多摩村長と小宮村書記が馬糧買上げで汚職をしたので召喚するというのである(『八王子市議会史年表』)。国分寺、日野停車場での馬糧事務が果して汚職であったのか否か明らかでない。当時の南多摩郡町村長会ではこの事件を暴露し、検挙のきっかけを与えたのは仙石南多摩郡長の材料提供にあるとし、町村長と郡長との間がすこぶる険悪なものとなった。町村長会では柴田八王子町長を代表に選び、臨時総会を開いて仙石郡長不信任案を可決し、その上申書を東京府知事に提出するに至った。この結果、仙石郡長は北豊島郡長に転任を命ぜられ、後任には金田吉郎が就任した(佐藤孝太郎『八王子物語』)。
 この事態に多摩村ではすぐ対応できず、十二月二十八日に村会で村長富沢政賢の退職認定会を開いている。翌三十八年二月二十一日、助役佐伯太兵衛が村長に就任する。明治二十二年の町村制実施以来五期十五年間にわたり、南多摩郡でもっとも長く村長を勤めていた富沢村長にかわって登場したのである。この交代は村内の政治構造の変化のうえに行われたものではない。政友会系勢力の支配する町村長会をバックに、政府代弁者南多摩郡長との対立の結果行われたものであった。

図1―6―2 佐伯太兵衛

 「富沢日記」によれば、三月十六日多摩村役場事件の公判があり、同月二十三日に「無罪」が宣告されている。事件はその後控訴され、最終的に無罪となったのは十月五日で、依願退職よりちょうど一年であった。宮城控訴院で無罪を宣告された富沢政賢が帰宅した九日、多摩村民一同が国分寺停車場に出迎えたという。富沢は四十年(一九〇七)九月に郡会議員に当選し、政治的に復権する。四十一年三月には再び多摩村長に選任され第五期目にはいり明治期を終わる。佐伯村長はしたがって日露戦争とその後の三年間の勤務である。この間、助役は小泉良助、収入役は市川酒造之助から小形篤之助にかわる。助役は四十二年には藤井保太郎にかわる。