村会議員と村会

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日露開戦時の村会議員は、伊野銀蔵、真藤龍蔵、相沢兵蔵、浜田喜一郎、横倉作次郎、富沢芳次郎、有山覚之助、小金寿之助、山田惣助、小泉良助、高野鎌太郎である。明治三十七年五月改選されたが、新任者は山田にかわった新田新蔵と欠員の部分に佐伯英三の二人だけであった。しかし間もなく新田、相沢が欠員となり、定員一二人中一〇人が現員で村会が開かれたが、必ず三、四人の欠席議員がいたため、村会は六、七人で開かれている。過半数ギリギリの村会である。
 明治四十年七月の改選で、村会議員は前期より継続する有山、真藤、高野、横倉、小泉、浜田、小金のほか、新たに佐伯喜太郎、馬場倉之助、小林卯之助、小形只市郎、馬場国太郎が選ばれている。この選挙会は二級選挙人一六八人(資三―257)、一級選挙人は四八人である。投票率はほぼ四五パーセントと六〇パーセントになる。明治三十四年四月選挙時の一六パーセント、三〇パーセントより高くなっている。この時期の村会は欠席が毎回二、三人であったため、審議は八人から一〇人の出席ですすめられている。議員の出席率も上昇していた。投票率や出席率の高さは、村民の村政に対する期待度の高さを示すものであろう。
 このような村会で審議される議案は数多い。明治三十七、三十九年度の村会議案は次のようなものである。
     明治三十七年村会議案
歳入出総計予算会、歳入出追加予算会、地価制限外徴収法案、農業科設置認定ノ件、小学校備品寄付受理ノ件(以上三月)。多摩村歳入出更正予算会、府税戸数割賦課法案(以上四月)。議員改選席次番号ノ件、書記選任ノ件、収入役選挙会(以上五月)。多摩村歳入出臨時費予算会(九月)。村長富沢政賢退職認定会(十二月)。
     明治三十九年村会議案
収入役退職認定会(一月)。伝染病予防歳入出追加予算会、歳入出総計予算会、地価割制限外徴収ノ件、書記退職認定会(三月)。府税戸数割賦課法案(四月)。多摩村銀行預金払戻請求ノ件、同上延期承認ノ件(五月)。同上延期証書ヲ徴シ延期ヲ与フルノ件(六月)。歳入出決算会(七月)。臨時費土木費歳入出予算会(十二月)。(「事務報告」)

 日露戦後の村会と審議議案の推移をみれば、明治三十七年は村会開会数五回、その審議議案数は一二である。明治三十八年は村会四回で六議案と少ない。翌三十九年は右に示したように村会八回で議案は一一議案と多くなり、四十年は四回で二四議案(資三―258)。四十一年は六回で二二議案、四十二年は六回で二五議案、四十三年は七回で三二議案、四十四年は七回で二一議案、四十五年(大正元)は八回で三五議案(資三―287)である。三十九年を境に村会議回数、議案数とも多くなる。そのため、その後の村会議案の掲載は省略する。
 当時の村会は日露戦後期も日清戦後期村会と同様に、村財政つまり前年度決算承認と、次年度予算の立案が審議の中心である。これに府税戸数割の賦課の際の村民富裕度の格差を決める等級決定案が毎年村会の基本となる。これらを中核議案とし村長、助役、収入役、書記、各種委員の選任議案がこれに次ぐ。ついで学校議案が多く学科増設、授業料決定、寄付金受入れなどが重要となる。これら財政、人事、教育が明治期村政の中心課題であったからである。
 日露戦後多摩村会の特色は、右基本議案以外の増加した議案に示される。第一に村財政に関していえば、財政膨張にともなう追加予算および予算流用議案の増大である。そのうえ「村税未納者外二件報告」(資三―258)とか「村税欠損報告」(明治四十一年「事務報告」)などが追加され、財政上のやりくりが課題となる。そのため基本財産創出のための蓄積議案や、三十九年度議案に見られるように公金保護のための多摩村銀行との関係が問題となる。
 第二は財政と教育の基本議案にかかわって、四十一年義務教育年限の四年制から六年制への延長にともなう学校増改築、教員増員と時期的要請からする補習教育などの諸議案の増加である。それゆえ多摩村財政の特色である教育費中心財政の性格を一層強めることになる。第三は用水、道路にかかわる議案の増大である。明治四十三年大水害にみまわれるが、これとは無関係に府費補助申請が行われる。社会基盤としての道路・用水・橋梁の整備が行われる時期である。第四は伝染病、衛生、消防組関係議案が多いことである。いずれも財政とかかわり全体として財政やりくり村政としての特色がきわだつ時であった。