財政収支と滞納問題

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村会審議のなかで予算と決算の財政審議はもっとも重要であった。予算案は当然前年度の決算額とのかかわりで決定されるので、ここでは決算額の推移から多摩村財政の特徴をみておこう。日露戦争時から明治期が終る四十五年度を中心に多摩村財政における歳出の推移をみれば図1―6―3のようになる。

図1―6―3 日露戦後期の多摩村財政
「資料編三」表3、表4より作成。注)明治38年は欠。

 日露開戦時の明治三十七年度の歳出総額は三九三六円余、三十八年度は不明であるが、この二年間は戦争のため政府から緊縮財政方針を命ぜられているので、ほぼ同規模と思われる。したがって戦後の明治三十九年度から財政は膨張し、大正二年度のピーク二万円余に向かい急増する。ちなみに大正期は九年度に二万円を超え、その後一層急増するが大正三~八年度は、一万円前後の高値安定期であった。多摩村財政にとって日露戦後期は急増期である。
 この歳出の内訳をみると、たとえば明治三十七年度は歳出総額のうち五五パーセントが、また四十一年度は六一パーセントが教育関係支出であるように、日清戦後同様、教育財政としての性格を継続している。
 歳入上の特色をみれば、明治三十七年度で村税収入は七〇パーセント、四十年度で八〇パーセント余を占める。つまり財源がないため村税依存財政であることはこの時期も変わっていない。当時の歳出費目および歳入費目の割合を図示すると図1―6―4、1―6―5のようになる。五年毎の割合を示すこの図によれば、明治三十七年より四十一年度までの歳出費目比でもっとも高いのは教育費である。その比率は五五パーセント余、明治四十二年から大正二年までも同様で、その割合は五八パーセント余となる。図1―6―5で歳入費比をみれば明治三十七年から四十一年度までの五年間は、戸数割が四八パーセント余でもっとも多い。ついで地価割の二二パーセント余となる。補助金、寄付金、雑収入が各七パーセント余にしかすぎない。明治四十二年から大正二年度までの五年間もほぼ同様の比率を示す。戸数割は明治四十五年(大正元)で村税収入の七四パーセントを占める。営業税割、所得税割は歳入全体のなかに占める割合はわずかである。

図1―6―4 多摩村財政における歳出費目比の推移


図1―6―5 多摩村財政における歳入費目比の推移
「資料編三」表3、表4などより作成。
注)明治38年は欠。

 ところで財政の膨張はそのまま村民負担を増すことになる。明治四十年度の事務報告によれば「納税期間ニ完納スルニ至ラズ、督促ノ末、滞納者ハ其都度報告セリ。村税総額四千七百廿八円六十七銭四厘、本年末日未納額六百卅五円七十三銭六厘、再三督促シ、尚完納ニ至ラサリキ」(資三―258)とされている。つまり滞納率は一三パーセントである。
 この当時の滞納問題についてみておこう。佐伯村長退任時の村長事務引継書(寺沢史家文書)によれば、滞納状況は表1―6―3のようになる。明治四十一年三月の村長交代期まで累積した額である。明治三十三年度から毎年累積し、各年毎の滞納率は二~五パーセントと少ない。とくに四十年度は滞納額一六円余で、前述の事務報告(正式に村会に報告された数字)中の数値六三五円余より非常に少ない。その理由が何か理解に苦しむ。それゆえもう一つの資料により四十年度滞納額を、賦課目にたち入って割合を示すと表1―6―4のようになる。
表1―6―3 多摩村村税滞納表
年度 村税額 滞納額 滞納率
円 銭 円 銭
明治33年 2129 73 50   2.35
34年 3137 05 79 24 2.53
35年 3381 94 179 68 5.31
36年 3313 69 87 72 2.65
37年 2864 91 117 43 4.10
39年 3565 17 24 81 0.7
40年 4685 53 16 27 0.35
「村会議事録」より作成。
注)明治38年は欠。

表1―6―4 村税賦課項目別滞納割合
賦課目 滞納額 村税絶対額比 滞納率
地価割 113.73 25.75 9.30
戸別割 336.73 68.43 10.37
所得税割 4.68 0.84 11.09
国税営業税割 22.02 0.91 50.15
府税営業税割 22.87 4.06 11.87
総額 500.03 100.00 10.53
明治41年「明治四拾年度村税徴収額調書」(多摩市行政資料)。

 この資料によれば滞納額は五〇〇円で、事務報告上の六三五円に近い。滞納項目をみれば国税営業税割の滞納比率がもっとも高く五〇・九パーセント、ついで府税営業税割、所得税割、戸数割が一一パーセント前後となっている。地価割は九・三パーセントと低い。これをみると国税または府税として営業税を支払う人々に課される村税はいまだ発展途上の営業者であるため、税金の重さが資本主義確立期の農村にとって耐えがたくなっていたことを示す。そのため明治四十年代から大正期にかけて営業税、織物税など三悪税反対運動が、全国的に発生し、やがて大正デモクラシーの底流を生み出す根拠がこの辺にあるように思われる。
 ここで注意すべきは戸数割である。四十年度の戸数割は税収上の六八パーセントを占め、その一〇・三七パーセントが滞納ということは、絶対額では未納がもっとも多いことを示す。戸数割は一応、富裕度に応じ等級をたてた徴収であるものの、各戸平等負担の原則にたつため下層農家への負担が強まる。四十年三月「近来村費ノ膨張ハ逐年ニ加重シ来リ、今ヤ戸別割ノ負担其極ニ達シ」(資三―256)といわれ、しかも下層農家の困難が指摘されるのはそのためである。
 このような村財政の混乱は、当然、村政の対応を必然化する。明治四十二年には「出納臨時検査立会議員」(資三―259)を村会で互選し、小金寿之助、横倉作次郎の二人に財政調査を委任する。あわせて書記の強化がはかられ、乞田の小磯宇兵衛が選任される。彼は税務を中心に増大しつつあった役場事務「土地兵事及戸籍ノ異動等著シク多」(資三―258)いことに対応しなければならなかった。